マートレーヤ 2章 ジョセフと子供たち Joseph and children, and Mary
ジョセフは、子供たちと身を寄せ合って、暮らしている。夕暮れの、記憶の階層の中を、その女は、微笑みを湛(タタ)えて、足取りも軽やかにやって来る。心地良い疲れが一日の終わりを告げ、安らぎと寛(クツロ)ぎが約束された憩いの時を想いながら、ジョセフは、ドアが開くのを、心待ちに、じっと待っている。何もかも...
マートレーヤの見た夢。 Maitraya’s dream.
認識のセンチメンタリズム。
古今東西、認識論は、自我と五感に纏(マツ)わる話から出発し、霊感や無意識の話で終わるケースが多い。これは、結局、脳の構造上の機能分化と相互作用に関する知識が全くないまま、自己完結的思考によって、かなり、強引に結論付けているためであるばかりでなく、当時の文化的・歴史的...
幸運の輪 Wheel of Fortune ;煉獄への誘い その7
“識(色)”の顛末。
遡(サカノボ)れば、先ず、世界は、輪環、である、と認知される。それは、洋の東西を問わず、車輪で表わされる。その循環を、輪廻(リンネ)、と、呼ぶ。それは、因縁(インネン)の反復変転する、永劫回帰の閉鎖空間であって、そこから解脱(ゲダツ)して、次なるグレードの世界へ転生するには...
ショートコラムの憂鬱 2020 part 4
弥勒の瞑目。
わが子が、親を親とも思っていない、と知ったとき、親は、わが子を子と思い続けることに苦悶する。自分の子であって、自分の子でない。その、もって生まれた知能の、子と親との隔絶した落差というものに、驚き、気づき、自失するのだ。余りにも、残酷な冷たい運命。子は、親に全幅の信頼を持っているも...
ショートコラムの憂鬱 2020 part 3
愛という名のもとに。
最近、禅について、見聞きしたり、書くこともあり、ちょっと疑問に思ったのだが、禅は、何故か、愛、という語を使わない。ただ、繋がり、という言葉を使い、connectと、英訳する。これが多分、愛、に準ずる言葉だろうと、思う。しかし、愛、とは、形式ではない。そのような分類的表現がふさわし...
ショートコラムの憂鬱 2020 part 2
ボクは、現在、「近代ドイツ・シリーズ」という非常に格調の高い、難しい、難解な歴史ものに携わっているのだが、書いていてまとまりがつかなくなるほど、情報量が多いのが難点である。これまで、いろいろな人物を書いてきたが、今回のフォイエルバッハには、ちょっと個人的な興味もあり、ここでも少し触れてみたい。
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日本人の特質。また、忘却の構造とわび・さび。
忘却と浄化の相関について。
わび・さびは、カタルシスとその余韻とを生み出す源泉であると同時に、その結果でもある。アリストテレス(Aristoteles B.C.384.6.19.-B.C.322.3.7.)が、その演劇論で述べたカタルシスkatharsis、すなわち、精神の浄化は、悲劇が観客にもたらす怖れ(pobos)と憐れみ(eleos)によって呼び起...