不思議の国の高度理系人材の不足 2


不思議の国の高度理系人材の不足 2


現在の日本のディジタル化の立ち遅れは,企業が設備投資や研究開発費を出し渋り,国も,殖産興業の精神を忘れ,十分な予算を割(サ)かず,恒常的な頭脳流出と理系教育の質的低下を招いたことも無関係ではなく,国民は国民で,急速な電脳化を好まず,世界的に起きてきたイノベーションのパラダイム・シフトを傍観してきたマスコミにも責任がある。そして,国はここに来て,ディジタル・トランスフォーメーション(DX)という経済界からのプレゼンスに乗る形で,イノベーションの革新を図り,遅ればせながら,欧米中韓に追いつこうとしているのである。しかしながら,その動きが,高度理系人材なる労働者の優遇策に終わるなら,一般労働者にとって,スキル・アップ,あるいは再チャレンジとはいったいどういう意味があるのだろうか?高度理系人材の育成という大義名分の下に労働市場の再編が行われようとしていることに強い警戒感を感じるが,それが国全体の底上げに繋がるのならやってみる価値はあるだろう。それが,いつもの場当たり的な労働政策でないことを祈る。

さて,今日の電脳化が人類史上に齎(モタラ)す負の側面にも目を向けておく必要がある。それはイノベーションの急激な変化に着いていけない現役一般労働者の処遇をどうするか,又,今後のイノベーションの進展についてである。既に,AIの著しい浸透によって,職を奪われつつある物流・倉庫業務の労働者に関して,国も労組も否定も肯定もしない後ろ向きの態度に終始しているが,こういった産業のロボティクス化は,今後,あらゆる職種に拡大していくことは,むしろ,自然であり,全ての労働市場はこの流れから逃れることは,出来ないと思われる。そして,これが教育問題であることは自明の理である。国は遅ればせながら,英語とプログラミングの義務教育化に舵を切ったが,それに果たして実効性があるのか,は,かなりの疑問符が付く。又,高等教育の学部偏重の指導方針をも見直そうという機運も生まれているが,一朝一夕には無理がある。そうなれば,ここは個人の志に寄るしかない。今,ネットを使える若者は確実に圧倒的である。彼らを対象に,ネットを使って資格の付与を行う仕組みを創設し,応募を促すのが最も現実的であり,最も簡素なやり方であると思うが,どうだろう?大学で鯱(シャチホコ)張った講義をするより,思いもかけない人材が集まると思うが。

一方では,さらに先を行くイノベーションのシフトが始まっていることにも注目しておかねばならない。それは遺伝子情報工学への流れである。既に,DNAシーケンサーの急速な発達により,ヒトゲノム全体の解析も24時間以内に可能となっており,又,DNAの工学的応用をも視野に入れた研究も始まっている。そういう意味で,高度理系人材の育成は,喫緊の課題である,と言えよう。しかし,そうした若者を早期に育成することは言うは易く,行うは難し,である。

昔,ロボットに職を奪われる人間の未来を描いた小説があったような記憶があるが,実際には,今のところ,その均衡は保たれており,一般労働者からも苦情は出ていない。むしろ,戦争という人間の醜悪な破壊と殺戮だけが今も続いていることについて,あるいは,地球温暖化による気候変動などについて,十数年前から危惧されていた事実にも注視しなければならない。

ここで,2007年の朝日新聞に掲載されたに総合大学院大学学長長谷川眞理子(1952.7.18.)さんの論説に深い洞察があるので紹介しておこう。


イギリスの天文学者,マーティン・リース(1942.6.23.)は,「人類最後の世紀」という本を出版した。核問題,地球環境問題,バイオテロリズムなど,21世紀は,もしかしたら,人類最後の世紀になるかもしれないと警鐘を鳴らしたのだ。

普仏戦争後の1872年。イギリスの作家ウィルキー・コリンズ(1824.1.8.-1889.9.23.)は,この世から戦争がなくなるには,究極的な破壊力を持つ兵器が発明され,誰もそれを使うことができなくなるという状態になるしかないのではないかと夢想した。原爆と水爆は確かにそのような究極の兵器である。広島,長崎の被爆から58年がたった。幸いなことに,あれ以来,核兵器が戦争で使われることはなかった。しかし,コリンズの予測に反して,戦争そのものは廃絶の兆しはない。

国際科学雑誌「ネイチャー」の最近の号に,広島の爆心地から900~1500メートルの範囲で被爆した人たちが浴びた放射線量の測定について,これまで,疑問に決着がついた,という研究が掲載されていた。1980年に導入された測定基準は,広島の犠牲者が被爆した中性子線の量を少なめに見積っており,実際の被爆線量は,もっと多かったのではないかという疑問が提出されていたのである。今回の研究では,銅の同位体を使用し,これまでの推定が正しかったことを証明した。人間があれ程の大量の放射線を浴びた経験は,広島,長崎以外にないので,どれだけの放射線を浴びた場合にどれだけの命の危険が生じるかの基準は,国際的に,広島のデータをもとに計算されている。従来の推定が少なめの見積もりであったのだとすれば,現在の基準は,もっと多くの量を浴びても大丈夫という方向にシフトする。

しかし,そうではなかったのだ。放射線に関する欧米の議論を聞いていると,どうも,その恐ろしさを,本質的に過小評価している感じがする。広島,長崎を実際に経験した国でなければ,わからない感覚なのだろうか。アリゾナやネバダの鍾乳洞のいくつかに行くと,1960年代の冷戦時代,本当に核戦争が起こった時に備えてアメリカ政府が作った核シェルターを見ることができる。地下深くに下りていった洞窟に,水の入ったドラム缶,軍隊の食料のパックなど,数百人が2週間ほど暮らせると見積もられた分だけ置かれている。最近,学生実習でこの場所をよく訪れるのだが,毎回,これを見るたびに,本当にこれっぽっちのことで核戦争を乗り切れると本気で考えていたのだろうか,と疑い,半ばあきれる。この58年間,戦争で核兵器が使われなかったことは喜ぶべきである。しかし,大国以外の国々が核武装に食指をのばし,テロリストという新しい脅威も出現する中で,「使われることない究極の兵器」と安心することはできないだろう。兵器ではなくとも,核はやっかいだ。原子力発電所の核廃棄物をどうするかという問題は,真剣に考えねばならない難問である。地球上のどこに捨てても安心はできない。宇宙に射出するような技術はまだない。完全に再利用することもできない。これ以上,先送りできない「究極のゴミ問題」である。エネルギーの使い過ぎから起きる地球環境問題も,人々が感じている以上に深刻である。

地球の生態系を動かしているエネルギーの源泉は太陽だ。太陽が風や雨も生み出す。光合成する植物が太陽エネルギーを栄養に変えて蓄え,動物たちがそれを食べて生きている。地球表面の生産性は,要は,太陽エネルギーがどれほどの風や水の流れを引き起こし,どれほど植物という形に変換されているかにかかっているのだ。少し前,世界の生態学者が,この地球表面全体で毎年どれほどの生態学的な生産性があるのかを推定し,人間が毎年どれほどエネルギーを使っているかを計算して,両者を比較した。そうしたところ,人間が使うエネルギーは,どんどん増加しているのだが,1970年代の終わりごろからは,人間というたった一つの種だけで,地球表面の全生産性を超えるエネルギーを使うようになり,現在では,地球1.2個分に当たる量を消費していることがわかった。なぜこんなことが可能かといえば,電力を使用するのに,地下資源や核を燃やしているからである。しかし,地下資源などは,本来なら使われることのない,余分なエネルギー源である。つまり,生態学的に言えば,1970年代終わりごろから,生態系の頂点にある人間は,毎年のフローではやってはいけず,貯金に手を出す生活を始めたからと言えるだろう。物質の究極を探る物理学も,生物全体の相互関係を探る生態学も,人間の知性の産物である。いまや人間は,自分自身を作り上げているゲノム情報すら手に入れている。人間の知的な活動には,限界がないかもしれない。人間は,好奇心を含めて自分たちの欲望をかなえるために,この知性を最大限に利用してきた。21世紀が人類最後の世紀となるかどうかは,今度は,欲望の制御のために知性をどれだけうまく使えるかにかかっているような気がする。


長谷川眞理子さんの生態学から導き出された論説は以上である。この危機的状態について,高度理系人材と呼ばれる若者たちはどのように対処しようとしていくだろうか?戦争そのものについても,その非生産性を如何にして克服するか,という難問にも答えを出さなければならない世代として,その使命感を自覚し,核抑止力などと言う張子の虎に左右されることなく,現実の生態系の頂点に立つ知性としての務めを果たす覚悟と気概を持ってほしい。
2022年12月09日
Posted by kirisawa
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