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東大紛争と忘却の静寂(シジマ)。
加藤一郎は東大の総長代行に互選されたが,気が重かった。山本義隆は権力と自由という構図の中で抜き差しならない立場に立たされていた。そうして,1969年1月,その日がやってきた。二人はその時,何を想っていただろう?それから,月日は流れ,その出来事の意味を問う者もなく,二人は忘れ去られた。数年前,山本の消息を伝える新聞記事があった。山本は駿台予備校の物理の講師をしているという。しかし,当時の事は勿論,身辺の事に関しても,山本は一切語っていない。
加藤一郎(1922.9.28.-2000.11.11.)は,東京に生まれた。1943年9月東大法学部を卒業,学徒動員の年だったが,大学院特別研究生として東大に滞った(トドマッタ)。民法の権威,我妻栄(1897.4.1.-1973.10.21.)の門下だった彼は,敗戦後の農村民主化に際しては,農地法の研究に従事し,その後,次第に交通事故の賠償問題や公害問題へと手を広げていった。
山本義隆(1941.12.12.)は大阪に生まれている。1964年春,東大理学部物理学科を卒業後,素粒子論を専攻して理学科大学院博士課程に進んだ山本は,その在学中に折から結成された東大闘争全学共闘会議代表となり,1968年には大河内一男(1905.1.29.-1984.8.9.)総長を辞任に追い込んだ。それは,それまで比較的冷静であったいわゆる識者,知識人,文化人と称される人々に強い衝撃を与え,不安感と危機意識を呼び起こさせた。それは折から激しい奪権闘争に発展した中国の文化大革命を想起させるものであった。東大の全共闘運動は,多数の一般学生の参加によって,全学的規模なっていった。
1968年11月,法学部長から総長代行に就任した加藤一郎は,文教界への政治の介入に抵抗し,学内の合意のもと事態を収拾しようと,使命感をもって努力した。医学部,文学部を除く7学部の代表団との間で合意された10項目の東大確認書の内容について,政府自民党からは妥協的違法と罵られ,東大全共闘からも官僚主義的処理と断罪されたが,それは,しかし,確かに一時的にではあるが,学内の混乱を停止させる方向に作用した。各学部のロックアウトが解除される中で,医学部,文学部と安田講堂のバリケードは強化され,各地の大学から支援の学生が集合しつつあった。
1969年1月18日,大学側の要請を受けて警察力の行使が始まった。機動隊はバリケードを次々に排除し,安田講堂に迫った。加藤は終始マイクから平静に学生の機動隊に対する抵抗中止を呼び掛けた。1月19日,機動隊は安田講堂に立てこもった学生達を逮捕し,封鎖を完全に解除した。東大全共闘の大部分の学生は支援の他大学の学生達と入れ替わっていて,逮捕を免れた。既に指名手配されていた山本の姿もなく,安田講堂の攻防も空振りに終わった。
加藤は入試中止を命じた坂田道太(1916.7.18.-2004.1.13.)文相に抗議し続けた。1月28日に発表した見解の中で加藤代行は,いわゆる教育的処分は大学生のように独立した人格に対して不適当と認め,またストライキをすべて違法とした矢内原三原則を廃止し,さらに大学構内への警官導入は主体である大学側の要請による場合のみと主張したが,政府はこれを黙殺した。4月,加藤は正式に総長となる。
東大の全共闘運動は,各地の大学に波及し,大学紛争は70年安保を前に頂点に達しようとしていたが,その騒然とした空気は路上で繰り広げられる機動隊と学生各セクトの乱闘に終始するようになり,その無意味な抗争はシラケムードに変わり,一般の関心は左翼から離れていった。その思想的原点を自己変革に置く山本の主張も,高度経済成長期に停滞し始めた左翼勢力に,新しい左翼の論理を提供するものと誤認された。
加藤は「東大紛争は世界的転機の日本への潮流だった。」と回想している。中国の文化大革命,フランスの5月革命,アメリカのスチューデント・パワーなど学生運動,あるいは,東欧における「プラハの春」弾圧などは,この時期,世界的規模で連鎖して起こった。そこには,肥大した権力と産学軍複合体という民主主義を根本から脅かす「体制」と呼ばれる旧世代の壁がそそり立っており,それがまさに次代の行く手を阻んでいた。それは,代議制民主主義の多数支配の仮面に隠れた「体制」の本質に対するラディカルな反抗であり,旧世代の欺瞞を拒否するものであった。時代はヴィエトナムの反戦運動と黒人の公民権運動に象徴される自由のための闘いの様相を呈し,反権力・反「体制」運動は世界的な盛り上がりを見せていった。
アメリカの学生たちは参加民主主義という直接民主主義の導入を主張し,現行の制度を拒否する姿勢を見せ始め,それは各国の学生運動に影響を与えた。日本では,結集した若者たちは各大学を占拠し,あるいは街頭での過激な示威行動に出て,警察と衝突した。「体制」側の強硬な反撃を受けて,学生側もより過激な武装闘争を目論む赤軍派などの小集団も結成される。この世界的なベビーブーマーの叛乱の根底にはすでに時代遅れとなっていた経済成長モデルのシスティマチックなパラダイムの転換が隠されており,時代は情報化社会へと足を踏み入れていた。それに気づいていたのは少数の未来学者と社会学者だけだった。米ソ両陣営はパワーエリート,あるいは,テクノクラートと呼ばれた官僚の実質支配体制に組み込まれ,互いの社会構造は本質的に類似するものになっていた。そこでは,デタント(緊張緩和)という冷戦構造の緩和と同時に政治の寡占支配という民主主義の空洞化が進展しており,「体制」は相互補完的様相を見せ始めていた。
学生たちの闘いは「体制」という権力中枢に一定の打撃を与えただけでなく,大衆の政治的意識を喚起した。それは確かに民主主義に新たな一歩を刻んだと言えるが,中国の紅衛兵のように,既成左翼の古びた階級闘争を蒸し返しただけに終わったケースもあり,運動はセクショナリズムと革命幻想の中に消えていく運命にあった。山本はマルキストではなかったし,その自己否定の論理は実存主義の影響下にあり,絶え間ない自己変革,投企性を重視したもので,そうした点で世界性をもつ学生運動とリンクするものだったと言える。1969年刊の“知性の叛乱”の中で山本は次のように述べた。「ぼくたちの闘いにとってより重要なことは政治的考慮よりも闘いを貫く思想の原点である。もちろんぼくたちはマスコミの言うように“玉砕”などはしない。一人になってもやはり一人の研究者たろうとするだろう。ぼくも,自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間,自覚した人間になって,その後あらためてやはり一物理学者として生きてゆきたい。」9月,全国全共闘が結成を前に逮捕された山本は,拘留中のまま,山本はその代表に選出された。
しかし,大学における攻撃的知性の復権を唱えた山本らの叛乱は,運動の党派的対立と主導権争いに終始して消滅する。社会における知識者の果すべき役割を明らかにし,独占資本主義の肯定的援護機関と化した大学を解体するとした全共闘運動の骨格は失なわれたが,山本の予見は的中し,公害,環境破壊,原子力発電,エネルギー・資源問題など,知識階級が見過ごしてきたために予防できなかった人災が一斉に表出した。加藤は「男なら東大総長と東京都知事にはなるべきではないと,かねがね思っていた」と語ったことがある。1972年6月,文部省の諮問機関高等教育懇談会の委員となり,中央教育審議会答申の具体化を期すご意見番にまつりあげられた加藤も1973年には総長を辞し,もとの法学部教授に戻った。1975年3月,加藤は国連大学副学長に選任される。1983年,成城学園長になっていた加藤は,脳死を個体死と認定し,本人や家族が認めれば,臓器移植を行っても構わない,という中間報告を発表した日本医師会の生命倫理懇会の座長も務め,医学の法制化にも携わったが,この時,もはや,東大紛争を語る者はなかった。