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古今東西、認識論は、自我と五感に纏(マツ)わる話から出発し、霊感や無意識の話で終わるケースが多い。これは、結局、脳の構造上の機能分化と相互作用に関する知識が全くないまま、自己完結的思考によって、かなり、強引に結論付けているためであるばかりでなく、当時の文化的・歴史的事情も背景にあるものと思われる。哲学も宗教も、歴史の一部である以上、それらの論旨に、時の風潮や時代感覚が反映されるのは避けられない。それは、ルター(Martin Luthur 1483.11.10.-1546.2.18.)やカント(Immanuel Kant 1724.4.22.-1804.2.12.)でさえ、ユダヤ人を嫌悪していたことからも明らかである。
英知(叡智)界(mundus intelligibilis)でのシッダールタ(Gotama Siddhartha Sakya B.C.5C)は、森の隠者(hermit, eremita)としての日々を送った頃を想起させる確信と霊感(inspiretio dei)に満ちていた。
信仰の究極の目的は、魂の解放であり、全てのものは、愛の前に、平伏(ヒレフ)し、屈することを甘受しなければならない。それが、人間存在の哲学的帰結であり、そのプロセスこそが、人生そのものなのである。
脱ぎ捨てよ。全てを。包み隠すことは無い。虚飾はいらぬ。今、世界と一つになる。煩悩(ボンノウ)を脱し、私心を捨て、私欲を滅す。瞑目独考(メイモクドッコウ)。自分は愚かである、と、賢人は、皆、悟った。皆、臨終(リンジュウ)を迎え、その一生の無益なることを知る。愚考愚昧(グコウグマイ)の所業。皆、己のために己が成したるだけの、虚業だった。修行も、修養も、何も成し得なかった。空(クウ)に過ぎなかった。空を悟っただけだった。
人に立ち勝ろうとすれば、軋轢(アツレキ)を生む。精進して禅に入ろうとすれば、虚妄(キョモウ)が生まれる。先駆けて(魁て)、悟りを得ようとする者は、虚人(キョジン)也。既に自心を失せり。
愚は、愚なり。早きにつけ、遅きに付け、人はいずれ知ることになる。知らぬ人もいる。儘(ママ)、いる。
幸福な人は幸福である。不幸を知らないから。