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わが子が、親を親とも思っていない、と知ったとき、親は、わが子を子と思い続けることに苦悶する。自分の子であって、自分の子でない。その、もって生まれた知能の、子と親との隔絶した落差というものに、驚き、気づき、自失するのだ。余りにも、残酷な冷たい運命。子は、親に全幅の信頼を持っているものの、自分の意思が通じないことに悩み、深く悲しむ日を送る。距離は開き、親は何時しか、子から蔑(サゲス)みの目で見られている、かのように思い込んでいく。愛の絆は、疑心暗鬼に揺れ、何が、真実で、何が、真実でないか、も分からなくなっていく。
蟠(ワダカマ)りはない。ただ、日常だけが過ぎていく。子は、それが普通だと思う。他所(ヨソ)のうちも同じだ、と。だが、親は、そうは思わない。自分たちの育った家庭との違いを意識せずにはいられず、子との気まずい毎日に躓(ツマヅ)きそうになりながら生きていく生活を呪ったりしているのだった。
行き止まりは遠からずやって来る。子は旅立とうとしていた。それは、別れである。親は、反面、ほっとした。確かに、気がかりでは、ある。自分たちとも、ろくに、意思疎通のできない、子である。果たして、自立できるだろうか?しかし、子は去っていった、振り返ることもなく。そこまでで、親の屈辱は終わる。使命も終わった。子は、新たな地平に向かう。出会うべき相手を求めて。寛(クツロ)ぎと安らぎ、平和なる地を求めて。そこにたどり着くために、そこで安らぐために、心地よく、時を過ごすために、ただ、只管(ヒタスラ)、歩んでいくのだ。行き場のない、あの家を捨てて。それは、自由、なのかもしれない。懐かしい、自由。物心つく以前の、記憶にもない、自由、なのかもしれない。そこへ、今、到達するのだ。
そうして子は、山に登った。世界が見えた。何もかもが分かった、ような気になった。誰かが、いた。そう、それは彼、あるいは、彼女だった。しばしの、黄昏が二人に降りた。夕闇の中で、二人は語り合い、夜を過ごし、朝を迎えた。幸福な夜だった。二人は、山を降り、ともに地を彷徨い、ともに住まいを探し、やがて、共に暮らすこととなったが、喜びには、既に影が差していた。子には、あの、違う、という感覚、やっぱりか、という、失意の悲しみが首を擡(モタ)げていた。言うべき言葉もなかった。やり過ごしてしまうべき感情だった。しかし、出来ない。不信ではない。ただ、誠心(ココロ)に従っているだけなのだ。それを、告げるべきか?告げなければ、欺瞞である。告げれば、多分、終わり、だ。
何が違うのか?ギャップだ。溝なのだ。越えようのない溝だ。この承認しえない落差こそ、育ちとか、性格ではない、悍(オゾ)ましい、DNAによって導かれた能力差という動かしがたい現実なのだ。それなら、能力のある方が包容してやればいいではないか?しかし、人間は、対等の発言権を求め、なおかつ、何らかの優位性を主張する、のが常ではないか!何処に、自分の意思にかかわりなく、自分のことが決められて喜ぶ者がいる?ふと、子は思う。相手も、同じことを思っているかもしれない。やはり、告げなければならない。だから、答えは、出ていた。
愛が、愛を奪う。子は、その後も、愛を得ては、失い、失っては、愛を得た。何時しか、子は、子もなく、老いていた。幸せを運んでくれる相手は、遂に、現れなかった。子は、蔑(サゲス)みの、その眼差(マナザ)しが、気になっていた。誰をも、蔑むようなことは無かったし、誰からも、蔑まれるようなこともなかったが、居たたまれなくなって去っていった人たちの面影だけが、親たちの思い出とともに脳裏に浮かんでくるのだ。人生は、邂逅(カイコウ)の遍歴かもしれない。誰しもが、歩む道ではないかもしれないが、知っておく道ではある。弥勒は目を瞑(ツム)った。