ショートコラムの憂鬱 2020 part 3


愛という名のもとに。

最近、禅について、見聞きしたり、書くこともあり、ちょっと疑問に思ったのだが、禅は、何故か、愛、という語を使わない。ただ、繋がり、という言葉を使い、connectと、英訳する。これが多分、愛、に準ずる言葉だろうと、思う。しかし、愛、とは、形式ではない。そのような分類的表現がふさわしいとは思えないが、何か理由があるに違いない。それは自分には解らない。

愛は、ともすれば、性愛、或いは、聖愛と一緒くたに扱われてしまうことが多い。これは、フロイト以来、愛を心理学の一分野と錯覚する識者がいたり、宗教の占有事項とはき違えて憚(ハバカ)らない聖職者がいたりするためだが、百歩譲って、彼らの主張にも一理ある、としても、つまり、愛は心理の一部である、神の愛にも愛はある、としても、はっきり言って、愛に理屈は無い、と言うのが、ボクの意見である。(理屈はいらない、のではなく、理屈は無い、のである。)これは、ボクの経験上の結論である。

確かに、愛とは、何か、と訊かれれば、それは、何らかの繋がり、connectである、とは思う。それが、どのような、繋がりか、どんな性質の、繋がりか、と言ったことを考え始めると、それはもう、愛から離れ始める。焦点がずれている。それは、すでに禅であり、哲学になっている。だから、頂けない、と言う他ない。

愛とは、愛だけの愛であり、愛だけで愛なのである。
2020年05月16日
Posted by kirisawa
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