幸運の輪 Wheel of Fortune ;煉獄への誘い その7


“識(色)”の顛末。

遡(サカノボ)れば、先ず、世界は、輪環、である、と認知される。それは、洋の東西を問わず、車輪で表わされる。その循環を、輪廻(リンネ)、と、呼ぶ。それは、因縁(インネン)の反復変転する、永劫回帰の閉鎖空間であって、そこから解脱(ゲダツ)して、次なるグレードの世界へ転生するには、ヨーガ(修養)によって導かれる悟りを得る必要があった。それが、昔(イニシエ)の世界視の基本であり、誤認であり、想像であった。

識(シキ)は、日本では、色(シキ)と見做(ミナ)された。それは、要するに、数多(アマタ)の、あらゆる情報を指す言葉と、解されたためである。

識(シキ)、とは、何か?

識(ヴィジュニャーナvijnana)、あるいは、色(ルウパrupa)とは、日本語では、大量の情報を集めたものを意味する言葉である。つまり、四季(シキ)(four seasons)とは、春夏秋冬の季節に関する情報の全てであり、死期(シキ)(death period)と言えば、人生を総括する時間を意味する。指揮(シキ)(command)は、集団を統括し、無論、情報も一元的に伝達する言葉であり、式(シキ)(ceremony)は、イヴェントを礼式化して総括した儀式の事である。以上のことからも明らかなように、“シキ”の意味するところは、情報の集積というところに落ち着く。即ち、その情報(識)を知ることが知識であり、情報を認知することが認識である。そして、大乗仏教では、ヨーガという、一種の修行を通じて得られる、唯識(ユイシキ)、つまり、世界認識に大いなる意義を見出している。

唯識は、認識を8段階のフェイズ・ステップ(八識)に分解して構造解説する形をとっている。内容としては、五感プラスαとして、六感とし、このほか、潜在意識としての無意識、さらに、心外という、個体外の啓示的要素を含めた、哲学的認知による認識の経路を明示し、それが心身全体と関連するものであることを繰り返し述べている。(ここで、思い当たるのが、後世の、ヘーゲルの「精神現象学」である。その構成上の類似は、結局、共通の命題によるものだから、なのであろうか?)

これは、現在、ボクたちが知覚の構造を考える場合、エピジェネティクスを想起するのに酷似している。即ち、システムとしての身体は、一見、それぞれ、個別に機能しているように見えるのであるが、それは、確かに個々の独立した指令系統により動作しているわけではあるが、実は、系統は分散してはいても、全体として、総体として一連の処理を、結果的に統括して行っている、という現実があるのである。そして、それは、認識、というシステムでも同じであり、例え、言葉の定義が違っても、この大乗仏教の唯識の内容説明を見る限り、その構造上の問題は、唯識の場合でも同じなのだ、ということが分かる。つまり、身体構造上の変異の矛盾は無いのである。

大乗仏教の教義では、知覚以外の方法で徳を積み、往生、成仏することは出来ないと、考えられていたから、とにかく、修行(ヨーガ)に専心し、識を得て、悟りを開き、来世へ転生する他、現世の煩悩(ボンノウ)や苦しみから逃れる道は無かった。実は、そうした教えは、その本家本元のインドで3世紀ごろから8世紀ごろにかけて、マイトレーヤをはじめとする高僧が次々と出て、瑜伽(ヨーガ)行唯識学派を中心に、編み出した考え方であり、それは、やがて、時を経て、禅宗など、中国・日本の現代の仏教に影響を与えることになる、偉大な仏教のバックボーンであり、新たなる思潮の源流だったのである。

ヨーガは、生の哲学であり、解放の、向上の哲学であって、生きとし、生ける者の歓びを賞讃する教えである。あらゆる苦しみから、人を救い、悩める心を癒す。ヨーガを行うことは真にその“脱却”のために他ならない。ヨーガを行うことそれ自体が歓びなのだ。そして、自らの心の奥を自らの心の眼、“心眼”で視よ。全てを超越し、唯識の全てが開眼する。識るべきものを識り、識るべき全てを識る。空は空。在るべきものは在るべきところに有り。

しかし、かかる栄華の日々も長くは続かなかった。時代は朽ち果てる。インドの仏教そのものが廃(スタ)れ、人々はその地を去り、ヨーガの本性(ホンセイ)を知る者は疎(マバ)らとなって、唯識の何たるか、は忘れ去られた。経典は野晒しとなり、教えは、文字通り、風化していった。

数世紀後、遥か彼方の島国、日本。念仏を唱えるだけで観法(審念熟慮・沈思黙考。)を済ませ、般若(prajna;事象・事物の真理・本質を瞬時に認知・理解する能力。類稀(タグイマ)れなる智慧。)という直観認知で世界認識(唯識)を得る。程無く、成仏、という、安易な、しかし、有り難い、大衆的趣向の般若経が一般に流布する。一方では、しかつめらしい禅宗の高僧たちも、今では、高等知識の担い手のような扱いとなり、外国で説法したり、瞑想したり、座禅を組んだり、勿論、国内でも、多忙を極めている。そして、今や、唯識、という言葉は、作家や文化人らに弄(モテアソ)ばれ、本来の意味を正確に識(シ)る者も少なく、ただ、漫然と、口角の任せるまま、巷を飛び交っている始末である。

認識とは、そもそも、学習によって、大脳皮質に格納される記憶情報であり、その学習とは、扁桃体による情動情報に基づいて、海馬に記憶された情報が反復刺激されて固定化する動作であり、その情報は、睡眠中に海馬から大脳皮質に転送される仕組みである。そうしたメカニズムは、1990年代になって、ほぼ判明した。それまでは、生理学的にも、現象観察的世界の域を出なかったので、哲学や宗教、心理学の研究者までが、脳の仕組みを推理することもなく、認識や思考について、様々な憶測に基づく想像、即ち、思い込みによる意見を表明してきたが、2020年代の今日になって、漸(ヨウヤ)く、情,知、それぞれの情報の軌道修正が図られている状況である。

認識は、存在、形而上学と並んで、哲学の三大構成要素であり、知と理に跨(マタガ)る本質原論を追求する窮理の一部門である(なんと小難しいことか。)。哲学は、アリストテレスから、カント、ヘーゲルに至るまで、認識の仕組みについて多くを語ったが、語られた言葉の全てが、その意味するところをはき違えられ、あるいは、誤解され、拡散し、茫漠とした、答えに値しない、つじつま合わせの道具に使われ、消耗され続けてきた。しかし、それは、言葉が難解であったことを意味するものではない。ただ、それらの言葉は、飽くまでも、それを発した者の言葉であって、それ以上の意味を持たない。他人には、関わりの無い言葉である。それ故、自(オノ)ずと、その論理も、彼自身の論理に過ぎず、その結論も正に自己完結の論理に執着する。従って、それは一種の“独白”であり、一人芝居のシナリオであって、書面の上の朗読劇に終始する。それが、哲学、というものの正体である。

哲学は、どの時代でも、時代的特性を主張し、時代とともに、普遍的原理を追求してきたにもかかわらず、十分な歴史的評価を受けることなく、ただ、歴史性を超越した普遍性だけを追求する学問と見做され、歴史の、あるいは、文明の核心から遠去けられてきた。このことが、哲学と世界との分断・断絶・離間・隔離の背景にある最も大きな不信感の主因・元凶なのである。今、直面する、識、の課題とは、真に、明確になりつつある、機構(メカニズム)と情動的諸課題との齟齬(ソゴ)をいかに解消していくか、ということであり、実は、それは、人間と電脳との棲み分けが可能か、どうか、を探る、本当の意味での哲学的共存社会を構築する上での試行錯誤の第一歩なのである。

それでは、核心の一部に触れておこう。ここで、事象の本質とされるのは、識、である“知(episteme)”と“理(logos)”との相関だけであって、電脳以前から、既に、哲学外に疎外されつつあった、情(passion)、感(emotion)の問題が、今、噴き出してきているのである。これらは、スポーツ、ゲーム、アート、音楽、といった均一密閉メディア空間に閉塞されて、ナチュラルな解放自由空間をすでに失っている状態になっている。つまり、ボクたちは、電脳支配領域に、既に、閉じ込められてしまっているのである。ボクたちの日常は、概ね、大半をサイバー空間で過ごしていて、モバイル無しには何もかも、捗(ハカド)らないのが現実だ。だが、幸か、不幸か、人間のシステムにはストレスが掛かると、疲れという、休息を要求するシグナルが出る。これで、機械との間にラグができる。この間に、考える時間もできる。振り回されるだけの毎日では、やりきれない。これでは、「モダン・タイムス」だ。そういう、電脳社会での人間性の解放、という問題も、避けて通れない。

人間の社会は良くなった。格段に良くなった。人を殺さなくなった。助け合うようになった。人も増えた。昔に比べれば、雲泥の差だ。便利になった。みんな、幸せだ。でも、そうでない人たちもたくさんいる。殺されている人もいる。いじめられている人もいる。追い詰められている人たちもいる。昔よりひどい。みじめになった。幸せだったこともあったっけ。
2020年06月07日
Posted by kirisawa
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