メッテルニヒのドイツ、あるいは、ドイツ精神の形成;近代ドイツ 3
1814年9月1日、オーストリア帝国(ハプスブルク帝国)の外相クレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens von Metternich-Winneburg zu Beilstein 1773.5.15.-1859.6.11.)の画策により、全ヨーロッパをフランス革命以前の王権復古体制に帰順させるべく、帝都ウィーンで国際会議が始まった。確かに、これは、秩序の再建と...
宗教改革 利益追求と労働価値の承認、あるいは、その足音;近代ドイツ prologue
中世以降、ローマの収奪は一層激しく、ドイツ諸邦の封建領主たちは苦悩の色を濃くしていた。ホーエンシュタウフェン家の断絶後、帝国の威信は既になく、帝国は主権を喪失し、その後も復権することもできず、有名無実のまま、ハプスブルク家に宗主権を奪われ、領邦は分断され、ドイツの諸権利はローマをはじめとする国外...
聖職叙任権闘争とカノッサの屈辱;ドイツ4
ハインリヒ3世の死は、帝国の政教一致の終局を告げる分岐点であって、その後継であるハインリヒ4世(1050.11.11.-1106.8.7.;在位1084-1105)と教皇グレゴリウス7世(1020?-1085.5.25.;教皇職1073.4.22.-1085.5.25.)との対立は、皇帝と教会の二重権力の限界を露呈させることとなり、帝国は事実上、分裂した。 グレ...
迷走する帝国と十字軍の開始;ドイツ5
政教一致の原則が崩壊した帝国は本来の定型化した統治体制も無論、形骸化し、キリスト教の理念に基づく法治もその体をなさず、ただ漫然と利益誘導されるまま、離合集散を繰り返す烏合の衆になり下がった高位聖職者と領邦諸侯・貴族たちは、さながら、魔界の祝宴場に跋扈する妖怪よろしく、皆、冥府への降下までの一時(...
プロイセン王国の成立、そして、カント哲学の展開;近代ドイツ 2
イマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724.4.22.-1804.2.12.)の生まれたプロイセンは、ドイツにおいては、比較的新しい王権国家であって、1618年、神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントがポーランド王国領であったプロイセン公領を同君連合という形で事実上自領に組み入れたことで、同国の骨格が...
教皇庁の腐敗と帝国の動揺;ドイツ3
ザクセン朝の直系は途絶え、若干の混乱はあったが、オットー1世の甥の子であるハインリヒ2世(974.5.6.-1024.7.13.;在位1002-1024)が最終的にその地位を得た。皇帝は先ず、自らの襲職を阻もうとしたザクセン公・ロートリンゲン公ら、諸公の荘園・私設修道院を接収し、司教座教会に委譲した。皇帝は確かに敬虔なキリス...
胎動、あるいは黎明;近代ドイツ1
 フランクフルト・アム・マインFrankfurt am Mainの両替商マイヤー・アムシェル・ロートシルトMayer Amschel Rothschild(赤い盾.Red shieldの意)(1744.2.23.-1812.9.19.)は、その5人の息子たちと共にフランス革命の混乱からナポレオン戦争に至るヨーロッパの大動乱の時代を生き、その時代を背景に合法・非合法を問...
帝国の統合と政教合体;ドイツ2
すでに皇帝戴冠以前、951年ミラノを支配下に置きヴェネツィアへの道を手中に収めていたオットー1世はローマでの権力掌握とイタリア経営にとりわけ熱心で、それを帝国統治の基盤に据えたが、イタリア南部に権益を有し、帝国の正当性に疑義を呈して戦争状態となっていたビザンティン帝国との和解が喫緊の課題であった。帝...
神聖ローマ帝国の成立;ドイツ1
814年カール大帝はアーヘンで死去した。 今も初代神聖ローマ帝国皇帝とみなされているこのフランク王国の支配者はその治績ゆえにとも呼ばれる存在であったが、死後、王国は動揺し、地方権力が分立してその領地は解体寸前となっていく。 カール大帝の第3子ルードヴィヒ1世(独人王)の時代、王国はまだ保全されていた。ル...
国民国家の終焉と国際国家への移行
ルネサンスを経て、近代市民社会の成立をみるまでの間に、ナショナリズムのうねりがおこった。最も顕著だったのはイギリス、フランス、そしてアメリカだった。イギリスは議会制民主主義のヒナ型ができていたし、独立したアメリカも立憲主義に基づいた主権在民をうたった憲法を制定した。フランスは革命を経てナポレオン...
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