帝国の統合と政教合体;ドイツ2


すでに皇帝戴冠以前、951年ミラノを支配下に置きヴェネツィアへの道を手中に収めていたオットー1世はローマでの権力掌握とイタリア経営にとりわけ熱心で、それを帝国統治の基盤に据えたが、イタリア南部に権益を有し、帝国の正当性に疑義を呈して戦争状態となっていたビザンティン帝国との和解が喫緊の課題であった。帝国復活の初期動機であるフランク王国の再生については、ノルマン人の侵入以後、王権が弱体化し、封建分立の混乱が続いていた西フランク王国(フランス)には政治的発言力は無く、皇帝の一挙一動に左右される有様で事実上の属州扱いとなっていた。

972年オットー1世はビザンチン帝国内で起こった政変を好機として息子オットー2世の妃にビザンティンの皇女テオファヌを迎えることに成功し、念願の和解を成就させ、後顧の憂い無く、翌973年テューリンゲンで死去した。その後、帝位はオットー2世、オットー3世と継承されたが、2人の皇帝は各れも若くして急逝したため直系の血統は絶えた。
この間、イタリアとの結合はドイツに都市と商業の発展をもたらし、内地植民・農地開墾の拡大は生産性の向上につながり、南北の富の平準化が進んで格差は縮小する方向へ向かい、帝国は新たな独自の経済圏を形成するに至った。

一方、表向きキリスト教の教義を軸とする統治は必然的に教会の政治的台頭を可能にし、権力のバランスは教皇側に傾き始めていく。オットー3世の治世には政治的に大きな変化があった。それはドイツ人初の教皇とフランス人初の教皇の誕生である。即ち、オットー3世はまず親族であるブルーノを996年グレゴリウス5世としてドイツ人初の教皇に選定させ、自らも帝位に就く。これは皇帝と教皇の蜜月の共同統治という見せかけのプロパガンダであり、皇帝の独裁専制の実態を隠蔽(インペイ)しようとしたものと解釈できるが15歳のうら若き少年であったオットー3世自身にとってはいささか事情は違っていたようだ。つまり、オットー3世は母テオファヌの影響を受け、3大権力(神聖ローマ帝国・ローマ教会・ビザンティン帝国)の理念的統合の実現を夢想していた節があり、なおかつフランク王国の構成国であるドイツやフランスの出身者を教皇の座に就けるなど、皇帝自身は<イエス・キリストの下僕>であり、<世界の皇帝>と自称するなど、キリスト教の信仰に全く服する者として振舞ってあくまでも共同統治の当事者の一人にすぎないと考えていたのであり既にその権力は不動のものということはできなかった。

999年グレゴリウス5世は急死し、オットー3世は自らの助言者であり、ラヴェンナの大司教に任じていたフランス人ジェルベールを教皇シルウェステル2世として就職させた。彼こそフランス人初の教皇であり、その博識は圧倒的で教会の腐敗にも立ち向かい、教会改革の先駆的存在でもあったが、その多面的性格が災いしてか、後世<紀元千年の魔術的教皇>と仇名され神に仕えるものには相応しくない者と揶揄されるなど、不本意な風評を立てられることになった。オットー3世は1002年21歳でファレーリアで死去し、1003年シルウェステル2世も世を去り、幸福な幻想は終わった。そして、政教合体という無形の遺産は次代に引き継がれ、やがて、それは皇帝と教皇の二重権力による分断統治へと姿を変えていくこととなる。
2018年08月26日
Posted by kirisawa
MENU

TOP
HOME