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今も初代神聖ローマ帝国皇帝とみなされているこのフランク王国の支配者はその治績ゆえに<ヨーロッパの父>とも呼ばれる存在であったが、死後、王国は動揺し、地方権力が分立してその領地は解体寸前となっていく。
カール大帝の第3子ルードヴィヒ1世(独人王)の時代、王国はまだ保全されていた。ルードヴィヒ1世はバイエルンの統治を委任され、ここを中心にライン一帯を支配した。それはドイツが一つの独立行政単位として歴史に浮上したことを意味した。843年ヴェルダン条約、870年メルセン条約によりその地位は確固たるものとなり、ドイツは東フランク王国、又、フランスは西フランク王国として承認され、ヨーロッパで対峙した。
ところが、876年ルードヴィヒ1世が世を去ると王国はたちまち分裂、相前後してノルマン、スラヴ、マジャールなど異民族が次々と侵入し、混乱は全土に及んだ。この真中、地方の有力部族の長は”公”と称して自領の拡張を計り、勢力を拡大して割拠した。これにより、部族独自の伝統への回帰が意識されるようになったが、外部辺境からの外敵浸入への備えにも配慮し王権の存続の必要も認識された。
911年東フランクのカロリング家の断絶を受け、フランケン公コンラート(コンラート1世)が選立されて即位し、ドイツは初めてドイツ国内からドイツ人の国王を推戴することとなった。だが、国内の実態は、貴族と呼称される部族権力が林立し、自治意識が強く、王権は相変わらず安定しなかった。メルセン条約で東フランクに属していたロートリンゲン(ロレーヌ)は西フランクに掠奪され、王国には不穏な危機感が広がっていた。この重苦しい緊張状態に楔(クサビ)を打ったのは、919年に即位したザクセン家のハインリヒ1世である。
新国王はザクセン家の豊かな財力の下、物心両面の援助を受け、まず諸部族に圧力をかけ、宗主権を承認させると共に、激しい攻防の末、西フランクからロートリンゲンを取り戻してその威勢を示し、マジャールを押し返し、スラヴとも戦って、王権の何たるかを実力で明らかにした。こうした国王の目覚ましい奮闘ぶりにもかかわらず、モザイク状態のまま”公”の半独立状態は続き、地方における支配権は依然として部族権力に帰趨することとなった。しかし、このザクセン家の統治(919年-1024年)は国王の権力基盤を確立し、その権益を伸長させ、王国に著しい発展をもたらすこととなる。
936年ハインリヒ1世の第1子オットー1世は部族公全員の一致した同意を得てアーヘンで即位し、ゲルマン古来の血統権選挙が定式化した。東方辺境におけるスラヴ、マジャールとの戦いは955年レヒフェルトの戦いでマジャールの敗北によりその勢力の最終的排除に成功しただけでなく、王国全土の統一を俯瞰(フカン)する礎(イシズエ)となった。国王は用心深く、異民族の再侵入を警戒し、マルクと呼ばれた防衛拠点を設置し、一方でバイエルン、フランケン、ロートリンゲンで起こった部族反乱を鎮圧し、その後、自身の親族(王族)を”公”の領地の行政官に任命して統治させた。又、”公”の領地を分割し、部族的血縁を排除して、領地との結びつきを切断し、その支配権を奪った。
さらに、領土全域の王領の経営と管理、又、最高裁判権の執行者としてヴァルツグラーフ(宮廷伯)を任命し、”公”たちに睨みを利かせ、中央権力の行使に抵抗する勢力に対し圧力をかけた。王国は全く国王の意に逆らうこと無く国土統一に邁進(マイシン)し、いわゆる帝国教会政策を実行して東フランク王国と領内の教会勢力の結合による”帝国再建”の道筋をつけることに成功した。
すでに、部族権力は弱体化し、”公”が切り離されたことによりその領地も王権の下に管理される時代となった今、ただ教会領のみがその例外的存在となっていた。国王はかかる事態を放置することなく、司教・修道院長等、高位聖職者に対し、彼らの宗教的、伝統的権威を損なわせず、又、自身の利益と方針をも堅持することも忘れず、以下の手を講じた。即ち、彼らに新たに土地を下賜し、これまでの種々の権益を改めて公許し懐柔した上で、その見返りに不時(非常時)の出兵を約束させると共に国王への貢納を義務付け、それを承諾させたのである。
その当時の教会の保持する戦力(動員兵力)は”公”、あるいは”伯”のそれを圧倒しており、その意味でも国王の目算は妥当なものであった。然る後、国王は東方辺境に多くの司教座を設置することを公許したが、それも宗教活動を推奨したためでは、勿論無く、国土防衛の要として教会軍の果たす役割にこそ重きを置き、期待していたからであった。これら一連の政策は教会側にも、その底意は十分理解されており、彼ら自身、布教に際して有利な立場(国王のお墨付き)を確保でき、新天地の開墾(カイコン)で得られる経済的利権を享受したことに加え、国王から度々、陰に陽に与えられる様々な恩恵に浴したことから、教会勢力は誘引されるまま、国王に接近し、ついにはカトリックの総本山ローマへと、オットー1世の望むままに、帝国再建のお先棒をかつぐことになったのである。
962年、オットー1世はローマへ征き、<神聖ローマ帝国>皇帝に戴冠し、カール大帝の後継者と自認する。