迷走する帝国と十字軍の開始;ドイツ5


政教一致の原則が崩壊した帝国は本来の定型化した統治体制も無論、形骸化し、キリスト教の理念に基づく法治もその体をなさず、ただ漫然と利益誘導されるまま、離合集散を繰り返す烏合の衆になり下がった高位聖職者と領邦諸侯・貴族たちは、さながら、魔界の祝宴場に跋扈する妖怪よろしく、皆、冥府への降下までの一時(ヒトトキ)を、その束の間を楽しむが如く、刹那(セツナ)に時を過ごしているだけだったのかもしれない。もはや、知性は失われていた。

ハインリヒ4世の3男ハインリヒ5世(1086.8.11.-1125.5.23.;在位1111-1125)は混沌の世界に秩序を回復させようと一計を案じたが、それはただ、体裁を整えるだけの浅知恵でしかなかった。皇帝は1122年、ヴォルムスに会議を開き、懸案となっていた皇帝と教皇の聖職叙任権と領地・財産管理権についての合意形成に努めた。ヴォルムス協約は須(スベカ)らく成立したが、その内容はイタリアとドイツの事実上の分離であり、名分上の取り決めに過ぎなかった。確実だったのは、ドイツ以外の地域において、聖職叙任権は教会に帰趨すること、ドイツにおいてはその選任の場に皇帝が臨席することとされ、皇帝による了解が必要とされた。さらに知行については、世俗権力の優勢が宣言され、それはドイツ国内の教会領も例外ではなかった。これは帝国内での皇帝と教会の棲み分けを現実承認したものであり、何れが統治者であるのか、何れが裁定者であるのか、についての議論は行われず、又、現状を変更するような決定に踏み込むことはなかった。
ハインリヒ5世に継嗣はなく、1125年5月23日、その死をもってザリエル朝は終わった。それは帝国の終焉を意味した。何故なら、これに続く後継者に一元的な帝政を執行する能力も、基盤もなく、統治力に疑問符が付く状況だったから。他方、教会は実体として法治の名の下に、帝国全域に影響力を有していたものの、行政の何たるかを知らず、ただ諾々と儀礼と教導を繰り返しては、世俗権力に干渉するばかりであった。結局、帝国は政教共に一体性を保持することができぬまま、むしろローカルな分権国家群ともいうべき現状を次第に追認する他なくなっていった。それは、ドイツが底知れぬ混迷の渦中に飲み込まれていく運命であることを暗示していた。

王領地は貴族たちの草刈り場と化し、教会が仕掛けた選挙王政は王権の根拠を喪失させ、弱体化し、ザクセン公であったロタール3世(1075.6.-1137.12.3.;在位1133-1137)やハインリヒ5世の甥でホーエンシュタウフェン朝(1138-1250)の初代ローマ王コンラート3世(1093-1152.2.15.)には、政策の一貫性はなく、地方では、耕作農民の隷属化が図られ、支配層の領主化が進んで、古典的な封建体制が主流となり、新たに王権から離れた新興貴族が台頭したが、これには十字軍として東方へ出兵するようになったことが関係している。階層構造の変化は社会現象の表出であることから、掲げられた大義名分に隠された本質的意義を推察すれば、対外戦争による利益確保こそ隠された目的であり、キリスト教という宗教イデオロギーを基盤とするアイデンティティーをプロパガンダに利用した教会の意図したところは、実は、ドグマに起源する一体性の醸成とその支配権の掌握にあることは明白である。かかる軍事力の動員は危機意識とモチベーションを生み、社会に一種の共同体幻想と連帯感を発現させるが、それは正に、ザクセン反乱における領主領民の抱いた連帯感と同次元の錯覚であって、時が経てば、曖昧な記憶の断片として霧消してしまうに違いない些末な思考現象に過ぎない。

帝国で当時最大の力を誇示していたのはバイエルン公であるヴェルフェン家であり、ロタール3世の娘と婚姻を結んだことからザクセン公も兼ね、王位に最も近いと思われていたが、その強権化を恐れた教会の策動によって阻止された。ヴェルフェン家とホーエンシュタウフェン家の確執はここに始まるが、それは領邦諸侯の分立状態を継続させるため、ローマが画策した結果であり、それは公然の秘密であった。

コンラート3世の後に続いたのは甥のフリードリヒ1世(バルバロッサBarbarossa;赤髭王)(1122-1190.6.10.;在位1155-1190)で、王は南部地域に軸足を移すことによって、帝国の復権を図るべく、1154年10月、イタリアへ遠征したが、1159年、教会分裂にも巻き込まれ、その目算は大きく外れ、1162年、敵対するミラノに侵攻してみたものの、これに反発する北部諸都市は、1168年、ロンバルディア同盟を結成し、完全に離反してしまった。1174年、皇帝は教会の正常化と北イタリアの平定を目指して再度の遠征に踏み切った。しかし、皇帝に批判的なヴェルフェン家のハインリヒ獅子公はこれに従わず、派兵を拒否した。1176年、皇帝軍はレニャーノの戦いで敗北を喫し、混乱を収拾する間もなく、イタリアを去ることとなった。1183年、コンスタンツの和約が成立し、ロンバルディア同盟との休戦はなったが、皇帝の智謀も及ばず、目論見は外れ、野望は野望のまま潰(ツイ)え去った。
フリードリヒ1世は確かに中興の君主ではあった。帝国再建はならなかったが、ドイツ国内における統合には一定の成果があったことは事実で、封建諸侯中の最高権力者として、ヘールシルト制(階層序列)を布いて、一定の条件に合致したものだけを諸侯に認証する仕組みを制定した。こうした王の施策にことごとく抵抗したハインリヒ獅子公に対しては、その伝統的公領であるバイエルンとザクセンを没収し、国外へ追放してしまう。最後に皇帝が輝いたのは、1189年の第3次十字軍の東方遠征であった。1190年、イコニウムの戦いでアイユーブ朝に勝利したフリードリヒ1世は故国への凱旋に向けて帰途を急いでいたが、どういう訳か、キリキアのサレフ河で溺死してしまった。
2019年07月30日
Posted by kirisawa
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