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確かにローマには腐敗の兆しがあり、既に、教皇庁では聖職売買(賄賂による身分役職・地位の売買)が行われるなど、宗教道徳上、許されない驕慢と頽廃(タイハイ)の空気が漂い始めていた。皇帝は静かに堕落していく教会を横目で見ながら、実は自らの王朝の終焉が近いことを悟っていた。1018年、ポーランドは帝国の東部に侵入し、マイセンMeissenを奪った。この事件は致命傷ではないものの、皇帝に容易ならざる外交の現実を突き付け、諸勢力にも中央の箍(タガ)が緩み出していることを認識させるものであった。1024年7月ハインリヒ2世はグローネで51歳で病死したが、子は無く、その死を以ってザクセン朝は終わった。
1024年9月オッペンハイムの諸侯会議においてコンラート2世(990.7.12?-1039.6.4.;在位1027-1039)がドイツ王に推挙され、満場一致で承認され、ここに帝位を100年にわたり継承することになるSalier(ザリエル、ザーリヤー)朝が始まった。しかしながら、ロートリンゲン公など一部諸侯は臨席せず、王は、止む無く事後承諾を取り付けるべく、各地を表敬して回ることとなった。彼がどういった人物だったかは、はっきりしない。ただ、字が読めなかった、つまり、識字能力がなかったことは記録されている。
1026年イタリアに遠征し、翌1027年3月ローマで戴冠し、帝位に就き、1032年9月には、以前から持っていたブルグント王国の相続権を行使して帝国の一領土とし、イタリアとの連結を強化し、経済圏の一体化を推し進めて、領邦間の物流の進展を図った。コンラート2世の業績といえば、領土の拡大と思いがちだが、実は次代の担い手を育てることに専心した有能な父親だったことを忘れてはならない。
その息子、ハインリヒ3世(1017.10.28.-1056.10.5.;在位1046-1056)は帝王学を学び、種々の英才教育で育った、英明の誉れ高い、名実共に最高の王であり、剛健であった父コンラート2世の期待に違わぬ、ドイツ史上稀なる統治者として君臨する。しかし、彼の神聖ローマ皇帝としての戴冠は遅れに遅れた。それは堕落したローマの責任であり、その張本人である教皇ベネディクトス9世(1012-1055?;教皇職1032.10.-1044.9.)の奇怪な行動とその醜聞によるものである。彼の不祥事については詳報しないが、この事変の収拾にこそ、先ず、ハインリヒ3世の力は発揮された。即ち、1046年、王はイタリアに遠征し、ストーリ教会会議を開き、愚かなる宗教者たちを断罪し、教皇庁の人事を一新して、バンベルク司教スイドガーを教皇クレメンス2世(1005-1047.10.9.;教皇職1046.12.-1047.10.)として送り込み、教会の浄化と復旧に当たらせた。係る処置の後、戴冠は新教皇の手によってなされ、王はようやく、神聖ローマ帝国の皇帝となって、先ず、膠着していた内外の懸案に辣腕を奮(ふる)った。獅子身中の虫であったロートリンゲン大公については、その領地を二分し、有力貴族に分割統治させると共に、仇敵ポーランドを征討し、ボヘミア・ハンガリーを服属させ、東方辺境エルベ川以東全域を領有するなど、帝国領土の拡張を図り、ローマについては、クレメンス2世の急逝後、縁者であるトゥール司教ブルーノを教皇レオ9世(1002.6.21.-1054.4.19.;教皇職1049.2.12.-1054.4.19.)に選定し、教皇庁の浄化に当たらせると共に、その改革を支えた。
1053年、レオ9世は侵入者ノルマン人との戦いに敗れ、囚われの身となって、1054年、失意のうちに獄死した。救援は間に合わなかった。皇帝は、アイヒシュテット司教ゲーブハルトを教皇ウィクトル2世(1018-1057.7.28;教皇職1055.4.-1057.7.28.)とし、混乱の収拾を図り、1055年、自ら、再び、イタリアに遠征した。その目的は、第一に、教皇庁の腐敗の根源である聖職売買(simonia)の実態の公表と妻帯の有無についての問責と申告、第二に、教皇領の譲渡禁止、の二つであった。皇帝は、フィレンツェで開いた教会会議において、この二項について諮問し、決定させた。
又、トスカーナからイタリア諸都市に勢力を成していた元のロートリンゲン公ゴットフリート3世を追放した。1056年初頭、画して、遠征は成功裏に終わった。
皇帝の次の仕事は、中央集権の強化であり、不自由隷属民ミニステリアーレministeriale(家人)を登用して、官僚的支配体制を整備し、国家経営を直轄化する、という方針の下、統治機構の再編に乗り出した。しかし、このアイデアには、新首都建設、即ち、遷都というプランが表明されており、しかも、そこは、ザクセンのハルツのゴスラーと明記されていた。この事実が明らかになると、これに反対する教会・領民ら、諸勢力は内通謀議し、徴税を拒むなど、実力で皇帝の専横を阻止しようと一致団結して決起した。その抵抗運動は、予想をはるかに超える規模となり、事態を収拾するには、遷都計画を白紙撤回するしかなかった。皇帝は挫折した。落胆し、もはや再起不能であった。1056年10月5日、幼子ハインリヒ4世(5歳)を残し、皇帝は世を去った。享年38。