胎動、あるいは黎明;近代ドイツ1


 フランクフルト・アム・マインFrankfurt am Mainの両替商マイヤー・アムシェル・ロートシルトMayer Amschel Rothschild(赤い盾.Red shieldの意)(1744.2.23.-1812.9.19.)は、その5人の息子たちと共にフランス革命の混乱からナポレオン戦争に至るヨーロッパの大動乱の時代を生き、その時代を背景に合法・非合法を問わぬ経済活動で19世紀の国際関係を左右して大金融財閥一族となったロスチャイルド家の創始者であり創業者である。
 マイヤーが世に出るきっかけとなったのは、古銭売買を通じてヘッセン・カッセルHessen-Kassel方伯の世子ヴィルヘルムの知己を得た(1775年)ことによる。この出会いは、その時はまだ、互いに見知らぬ王族と一介の商人(アキンド)であったが、年齢的にも比較的近い(1歳違い)2人が、やがて完全なる利害の一致の下に、終生同じ道を歩むことになる無二の同志とも呼べる、浮沈を共する関係となるものであった。1785年、ヴィルヘルムは継家し、ヘッセン-カッセル方伯ヴィルヘルム9世WilhelmⅨ(1743.6.3.-1821.2.27.)としてカッセルのヴィルヘルムスヘーエ城に入り、一両替商にすぎなかったマイヤーに宮廷への出入りを許した。マイヤーは手形割引の仕事を得ることができたが、その利益は十分なものではなかった。叉、本拠地フランクフルトでの商売も減らす訳にはいかず、そのため、カッセルには2人の息子、長男アムシェルAmschel Mayer von Rothschild(1773.6.12.-1855.12.6.)、次男ザーロモンSalomon Mayer von Rothschild(1774.9.9.-1855.7.28.)を出張させて仕事の加算を工作させた。方伯は2人の若者を気に入り、手形割引増額に応じただけでなく、同家の銀行を方伯家の正式金融業者として認証・昇格させ、マイヤーは名実共に宮廷銀行家となった。(1789年)
 1789年7月14日、バスティーユ牢獄襲撃によって激動のフランス革命の幕が切って落とされ、ヨーロッパは25年に及ぶ大動乱の渦の中に呑み込まれていった。市場の混乱する大陸を他所(ヨソ)に、イギリスだけは産業革命に沸き、経済は急速に成長し、構造転換の時代に突入していた。マイヤーはこのドーバーの対岸の技術革新がもたらす巨万の経済的利益が、歴史を変えるものであることを直感的に理解し、コストの削減・製品の量産化に着目して、その商品(例えば、綿織物)を低価格で大量に輸入して大陸各地で廉売(レンバイ)することを企画し、1798年、21歳の若者だった3男ネイサンNathan Mayer Rothschild(1777.9.16.-1836.7.28.)をマンチェスターManchesterに移住させた。ネイサンは期待に違(タガ)わぬ働きで、マイヤーの目論見は成功し、その後、ネイサン自身も綿糸業の流通取引き全般を掌握するなど、イギリスをロスチャイルド家の第2の拠点とすることに成功した。
 やがて、1801年、方伯家の有力銀行家となったマイヤーは、ヴィルヘルム9世から当時ヨーロッパ随一と言われたヘッセン家の巨額の全財産(現在の価額で推定4000万ドル≒44億8千万円)の管理と運用を下命された。マイヤーは、この運用益から発生する自身の多額の報酬を息子たちと共に全ヨーロッパに再投資し、これによりロスチャイルド一族はヨーロッパ最大の金融資本に成長していくのだが、それはまだ先の話である。
2018年11月03日
Posted by kirisawa
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