1814年9月1日、オーストリア帝国(ハプスブルク帝国)の外相クレメンス・フォン・メッテルニヒ(Klemens von Metternich-Winneburg zu Beilstein 1773.5.15.-1859.6.11.)の画策により、全ヨーロッパをフランス革命以前の王権復古体制に帰順させるべく、帝都ウィーンで国際会議が始まった。確かに、これは、秩序の再建という、ナポレオン戦争によって広まった国民主義・自由主義運動の鎮静化を図ることがその主眼とされた会議ではあったが、実質的には各王国の領土の確定と領有権を確認することが、ほぼ全てといってよい力の均衡を誇示するためだけの会議であった。各国はパワーバランスに拘(コダワ)り、数ヶ月が経っても合意には至らず、ただセレモニーとパーティーに明け暮れる有り様だったが、ここに新たな事態、1815年3月、ナポレオンのエルバ島脱出の報が届くや、急転直下、妥協へ向けた真剣な討議が行われて、6月9日、ウィーン議定書が締結された。
この前日、6月8日付けで、メッテルニヒはこのウィーン体制の核心であるドイツ連邦の発足を宣言し、内容を公表した。即ち、神聖ローマ帝国を構成してきた35の領邦と、リューベック、フランクフルト、ブレーメン、ハンブルク、の4つの帝国自由都市を、オーストリア帝国(ハプスブルク家)を盟主(連邦議会議長)とする連邦体制へ再編・統合し、各領邦・都市の自治を認める代わりに主権を制限することを受諾させたのである。各国・各都市権力は名目上の外交権は有していたものの、その実態は保護国であって屈辱的ですらあったが、領邦君主にとっては、自己権益を温存できる望ましい体制であったかもしれない。だが、ドイツ統一を目指す国民主義・自由主義運動の中心である知識層・市民層・新教徒にとっては、憂うべき事態であって、懸念していた政治的後退という現実を突き付けられたことに違いなく、それは直ぐ、ナポレオン戦争を義勇軍として戦った学生ら、若い世代の反発を招くこととなった。即ち、反ハプスブルグ・反ドイツ連邦を主張するドイツ統一運動が、より若い、若年層を動員することになったきっかけは、ここにあって、いわゆるブルシェンシャフト運動へと繋(ツナ)がっていく。
1815年6月12日、連邦発足の4日後、イェーナ大学に学生たちを中心に、“統一と自由”をスローガンに掲げた若者の政治結社が立ち上がった。この結社は、直ぐにブルシェンシャフトBurschenschaft(Burschen青少年の、schaft集団。)とヤーン(Friedrich・L・Jahn 1778.8.11.-1852.10.15. ドイツ体操の創始者。体育指導者。)によって命名された。ヤーンの知名度もあって、その名は瞬く間にドイツ全土に拡散し、やがて、領邦権力からの解放と統一国民国家樹立を目指す自由主義運動の中核として、存在感を示すことになる。
1817年、全国の学生たちは、ヴァルトブルク城を中心に催された宗教改革と解放戦争を記念した300年祭に結集し、1818年、その全国組織「全ドイツ・ブルシェンシャフト」の結成を目論んだが、その運動は未熟で、空想的な域を出ず、中世帝国の虚妄の歴史を回顧するなど、時代を見通す視点を欠き、寧ろ、混沌とした袋小路へと向かっていた。それを横目で見ながら、領邦権力側は、弾圧と壊滅の決意を固めたが、それは、守旧派の中心人物メッテルニヒにとって、願ってもない絶好の機会の到来である。
1819年、体制側の劇作家コッツェブー暗殺事件が起こると、メッテルニヒは、ブルシェンシャフトの活動家カール・ザントを逮捕し、直ちに処刑すると共に、領邦の代表者をボヘミアのカルロヴィ・ヴァリに招集し、出席者の暗黙の了解の下、彼らにとって同胞ドイツの国民である青少年を生贄(イケニエ)にするも同然の、自由の制限・結社の禁止・出版の検閲・学生警察の設置を決議させた。この決定はハプスブルクの思う壺であり、その仕掛人メッテルニヒにしてみれば、同家の反対勢力のドイツでの活動を封じ込める上でも最良の策であった。連邦を構成する領邦・都市合議制は事実上消滅し、ドイツは名実ともに主権を喪失したのである。まさしく、反革命の寵児(チョウジ)メッテルニヒこそ、独立と統一を求めるドイツ国民の自由の前に立ちはだかる真の敵であり、ハプスブルク家の番犬ケルベロス(ギリシャ神話の冥府の守護者ハデスに傅(カシズ)く獰猛(ドウモウ)な犬)と言うべき存在であったが、その凋落(チョウラク)の時は迫っていた。
19世紀のマキャベリストであるメッテルニヒは、単なる反動体制の擁護者などではなく、絶対王政そのものの狂信者であった側面もあったことも否定できない。彼は、現実的なディールに長けているかのようで、実は、強引で合意形成に失敗することも屡々(シバシバ)であって、その強硬な物腰の裏には、ハプスブルクの権力を笠に着た傲慢な素顔が常に透けて見えていた。それは、ドイツに限らず、ハプスブルクに虐げられていた独立や統一を求める諸民族の反感を買い、燻(クスブ)り続ける民族運動の火種の一つとなっていた。そういう意味で、メッテルニヒの足元は意外と脆弱(ゼイジャク)であり、彼自身はサーカスのエンディングに登場する道化師、ピエロであったのかもしれない。彼が衛ろうとしていた、栄光の過去に包まれて生きてきた、神の受権者たちの時代は、今や、幕が降りようとしていた。
ドイツは、二つの潮流に分裂していく。一つは領邦権力とプロイセンを中心とする王権保守勢力。一つは、新教徒市民・知識層を核とする自由主義・国民主義運動勢力。しかし、富の偏在は如何とも、し難く、産業革命は上からの革命として始まる。画して、プロイセンの首都ベルリン、又、第二の都市ライプチヒは、ドイツの新時代の中心都市として、発展を遂げることになる。
そして、観念論争に明け暮れた思想界には、ヘーゲルが出現し、三元弁証法によって終止符を打つ。やがて、フォイエルバッハが人間主義的唯物論を掲げて登場し、時代はようやく、人間存在の独立へと向かうことになるが、その後継者、マルクスとエンゲルスは、経済理論に幻惑されて、主体である人間の自由を忘れ、大衆の中に個人を埋没させてしまう、お仕着せの政治理論の袋小路に迷い込んでいく。