プロイセン王国の成立、そして、カント哲学の展開;近代ドイツ 2


イマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724.4.22.-1804.2.12.)の生まれたプロイセンは、ドイツにおいては、比較的新しい王権国家であって、1618年、神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントがポーランド王国領であったプロイセン公領を同君連合という形で事実上自領に組み入れたことで、同国の骨格が形作られ、ポーランドとスウェーデンの間で取り決められた1660年のオリヴァ条約で、ポーランドが正式に同公領を手放した結果、その施政権はブランデンブルク選帝侯のものとなった。1701年1月、ブランデンブルク選帝侯プロイセン公フリードリヒ3世に対し、皇帝レオポルト1世は、目前に迫ったスペイン継承戦争への援軍8000の出兵を要請、見返りに”プロイセンにおける王”の称号を授与する旨を伝えてきた。画して、公はプロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で戴冠し、事実上の初代プロイセン王フリードリヒ1世(Friedrich 1 1657.7.11.-1713.2.25.;在位1701.1.18.-1713.2.25.)となった。

カントはルター派の敬虔主義を信仰する両親の下に生まれた。父は馬具職人であった。裕福とは言えない出自である。しかし、勤労を尊ぶ一家であり、教育にも熱心であったようだ。カント自身も学習意欲があり、若い頃から広範なテーマについて論説し、自然科学にも関心を寄せ、ニュートン(Isaac Newton 1643.1.4.-1727.3.31.)やライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 1646.7.1.-1716.11.14.)の著作も読んでいた。初期のカントの著作の中には、太陽系が星雲から生成されたことを推察した先進的なものもある。

カントの哲学上の史的重要性は、認識論の批判的再編・再構築だけでなく、“神”の概念と”ヒト(人間)“との価値観の相対化に先鞭をつけたことにあると考える。この結果、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1225?-1274.3.7.)の「神学大全」以来、揺らぐことがなかった”神“の不動の地位が、次第に変化していくことになるのである。カントは、「純粋理性批判」の中でトマス・アクィナスの”神の存在証明”に対する4つの反論も行っている。しかし、彼は、神を攻撃したわけではなく、あくまでも、偶像と化した、その概念を葬り去ろうとしていたのであり、又、一方で、人間という、主体を持った存在の時代が、やがて来ることを予感していたのである。カントは、イマヌエルという、自分の名前が、ヘブライ語で、“神は我らと共にあり”、という意味であることを知っていたのであり、神と人間の密なる関係を切り離して考えるには至っていなかった。ただ、彼は、哲学の目的は、人間学であり、それは、人間とは何か(Was ist der Mensch?)を探求することだ、と考えていたのである。

カントの関心は、人間の”知“の本質を示すと思われる、古代エジプト以前に遡る理性(rogos)と呼ばれた言葉の意味を考察し、人間がいかに事象を認識するかを分析し、その構造を明らかにすることにあった。彼は、理性こそが、人間にとって、自己と不可分に結びついた知的霊性であると、確信しており、彼の類推、及び推定は、全て、そこを起点として始まっている。彼の二つの著書「純粋理性批判」・「実践理性批判」は、飽くまでも、現象観察的想像の範囲を出ないが、彼が称賛したアリストテレスの論理学に退けを取らない論法の分析力が披瀝されている。

カントによれば、理性(vernunft)は個々人に帰属するものであって、それは各人の経験から生じるものではなく、個々の内在的な本性に基づく原理(prinzip)によって組成される。この原理に内包されている力には限界があり、それ以上を望むことは出来ないし、それは個々人によっても差があるが、事物(sache,ding)を認識できるのは、この原理がその理性に働いているからなのだ、と言う。そして、最終的に、人間はあらゆる経験から独立し、理性自身によって認識の枠組みを決定できなければならない(純粋認識)、と考えた。つまり、ここで、カントは、この原理を経験に先立つアプリオリ(a priori;先趣性・飛躍)の認識を理性に与える内在と規定したのだが、このことが、当時、コペルニクス的転回と称賛され、それまでの伝統的な懐疑論から抜け出せなかった認識論を革新することになったのであった。

「純粋理性批判」第一版は1781年、第二版は大幅に改定されて1787年に出版された。続いて、「実践理性批判」が1788年、「判断力批判」が1790年に出版された。ヨーロッパは啓蒙主義の時代からフランス革命に始まる動乱の時代の目前にあった。その時代にこそ、カントの三大批判は、期せずして、世に出た。かかる偶然もあるだろうか?如何にも、時代はカントに寛容であって、彼は啓蒙思想の擁護者として不動の地位を得るのである。とは言え、思想形成過程期のカントは無教養の下層市民を蔑視していたことがあったと言い、その時、ルソー(Jean-Jacques Rousseau 1712.6.28.-1778.7.2.)の著作に触れ、人間性に開眼し、その人々を憐れみ、理解したという事実が伝わっている。1789年7月、フランス革命が始まると、カントは革命派の立場を支持し、苛烈なジャコバンの独裁時代となっても、その立場は変わらなかった。

1791年、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte 1762.5.19.-1814.1.27.)が、ケーニヒスベルクのカントを訪ねてきた。フィヒテは、既に67歳の老境にあった先達の教えに接し、新たな“知”の地平へと歩を進めるきっかけを得ることとなった。しかし、カントはこの青年の本質である熱情が、執拗で狂信的な反ユダヤ主義に向かっていくことになるとは、予想だにしていなかった。確かに、カントも、当時の一般のドイツ人と同じく、ユダヤ人に良い感情を抱いてはいなかったが、さりとて、歪んだ感情を持っていたわけではなかった。カントはフィヒテに好意的であり、その熱血と気鋭の弁舌に感銘し、彼の処女作「あらゆる啓示批判の試み」の出版に援助を惜しまなかった。フィヒテの名は、これによって、世に出たのである。

フィヒテはどのような人物であったか?生まれは農家で、貧困のため修学できなかった。しかし、異常な記憶力の持ち主で、教会で聞いた説教を寸分違(タガ)わず覚えていたという事実も記録されている。この能力に驚いた支配貴族の援助で、大学まで進学したものの、援助者の死によって、又しても、極貧へ身を落としてしまう。一時は自殺寸前まで自分を追い込んだり、困窮に苛(サイナ)まれたが、友人の助けでスイスに家庭教師の口にありつき、事なきを得た。カントの哲学に傾倒・心酔したのはこの頃である。

革命の理念に同調し、お互いに共鳴し合ったカントとフィヒテではあったが、二人の描く世界は全く相容れないものであった。カントは愛と理想を語り、フィヒテは国家との同化を説いた。もはや、師弟の道は、はっきりと分かれていた。晩年のカントは、プロイセン当局とも、教会とも、軋轢があり、認知症の進行と共に、次第に論壇から遠ざかっていった。そして、1804年2月12日、カントはこの世を去る。79歳。最後の言葉は、“Es ist Gut(是非もなし。)”だった。
2019年07月30日
Posted by kirisawa
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