マルクスとエンゲルス(3)革命の失敗とイギリスでの余生;近代ドイツ 9


マルクスとエンゲルス(3) 革命の失敗とイギリスでの余生;近代ドイツ 9

1844年、エンゲルスは、帰国の途上,パリで,マルクスと再会し,互いに同志として打ち解け合う仲となった。二人は生涯の友情を誓い,以後,衝突すること無く,困難に会えば支え合い,難局に際しては励まし合って,共に旧態然たる諸勢力と渡り合った。1845年から1847年にかけて,二人はブリュッセルに移り,近くに住まい,お互いの考えを形にしていく作業を楽しんだ。その成果は「ドイツ・イデオロギー」に結実し,ヘーゲル的歴史哲学を改編して,観念論の系譜の過ちを糺し,弁証法的唯物論の世界観に収斂させようとしたものだった。マルクスは,エンゲルスの協力の下,唯物史観という,キリスト教の影響の強い予定調和的な社会主義の必然性を説く理論の体系化を進め,共産主義者同盟の綱領である「共産党宣言」を起草した。

1848年,ドイツ三月革命において,エンゲルスは義勇軍に参加し,忽ち鎮圧され,ロンドンへ逃亡した。一足早く亡命していたマルクスと合流し,1850年,歴史書「ドイツ農民戦争」を執筆して,革命の失敗要因の歴史的原因を考察したりしたが,生活に困窮し,実家の許しを得て,父親の事業に復帰した。一方,取り残されたマルクスだったが,エンゲルスからの援助や亡くなった叔父の遺産を糧に生活し,1867年,「資本論」を発表,資本がどのように作用して労働から利潤を搾取して再生産するかを,解き明かして見せた。エンゲルスは,父親から離れ,実業の道を捨て,ロンドンに転居し,マルクスと共に1869年にドイツで結成された社会民主労働者党の指導に当たった。又,自然科学にも思索を深め,「自然の弁証法」の準備を進め,1878年には「反デューリング論」を発表してマルクス理論の擁護のため,対抗する者や批判する者に反論した。

マルクスとエンゲルスが去ったドイツでは,フェルディナント・ラッサ―ル(Ferdinand Lassalle 1825.4.11.-1864.8.31.)らの,協同組合による相互扶助の理論が主流になりつつあった。彼らは,賃金交渉を行えば,結局,その分コストがかかり,物価高を招くと考えて,労働組合や争議は自分たちに不利になるだけだ,と主張しており,マルクスの言う賃金の呪縛から逃れられない人々であった。既にマルクスは,自分たちの要求を社会が認めないのは明らかだとして,武力闘争によって権力を奪取し,プロレタリアート独裁しか道は無いと思い込むようになっていた。マルクスは,革命勢力の拡張ぶりを見て,誤った判断をしている自分に気づかなかった。人間の解放を謳った自分が今や,理論上であれ,ある種の人々に屈従を要求するようになっていることに気づかなかった。

1883年3月,マルクスは静かに椅子に掛けたまま眠るように死んでいるのが発見された。64歳だった。その日から,エンゲルスの単独飛行が始まった。彼は,マルクスのやり残した仕事の全てを完成させるべく,不屈の精神で努力した。先ず,「家族・私有財産・国家の起源」を校訂・発行し,未完のままになっていた「資本論(第二・第三巻)」を完成・発行した。彼は,マルクス理論,共産主義を世界に広めるべく果敢に行動し,1889年には,第二インターナショナルの名誉会長に就任,各国の革命家たちを理論面・資金面で支援して,理想とする人間の,労働者の権利擁護のために尽力した。1895年,喉頭癌のため死去。74歳。

マルクスは,人間とは主体である現存在を指し,その行動の結果としての歴史が成立すると指摘し,歴史によって人間が形成されるわけではない,とした。彼とエンゲルスは,哲学のロジックの世界に埋没していく自分たちの空虚な議論に気づくことは無かった。もはや彼らの議論は議論のための議論であり,他者の議論を排除する口実としての革命を語るアジテーターでしかなく,経済学という罠に堕ちた正義の仮面を被った扇動者であり,堕落した道化師であった。しかし,マルクスの理論は,彼が実際行動した思想家だったことから多くの賛同者を呼んだことも事実である。彼らが非難し,攻撃したものこそ歴史であり時代であり,当時の因循な社会であったことは言うまでもないが,彼らが目指した人間の解放という高邁な理想は今も,実現不能な理想のままである。
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