列伝series phase 4 林美雄(1)


フォークルの解散後,勇ましい反戦平和の大合唱を経て,若者たちは敗残の四畳半フォークの季節を迎えていた。投げ捨てられた花束は,時代の真空状態の中,混在する素人全盛の自作自演曲に流され,渦を巻き,牙をもがれ,仲良し同士の誰もが望む小宇宙のテーマ・ソングとなり,マスコミに都合良く弄(モテアソ)ばれ,御座なりの流行歌になってしまっていた。糸居の席は夜から昼に代わり,そのコマーシャリズムに毒されたリクエストに応えるという不本意な異動にも耐え,再起の時をじっと待つしかなかった。しかし,リスナーたちは糸居を忘れてはいなかった。糸居は,束の間,熱狂的なファンやラジオ局の仲間たちの熱意によって,長時間にわたる特別番組「DJマラソン」を決行し,気を吐いた。そして,1980年代,糸居は「オールナイト・ニッポン」にカムバックし,不死鳥伝説を残し去っていった。

1970年5月,糸居が,混迷の渦中にあったころ,赤坂の放送局で,一人の風変わりなDJがデヴューした。彼こそ,糸居の信条である,放送文化人,カルチャーショッカーの系譜を受け継ぐべき男,林美雄(1943.8.25.-2007.7.13.)である。不滅のDJ糸居五郎の信奉者であった林は,深夜放送にのめり込み,いつか糸居のような本当の,しかも,真っ新(マッサラ)な文化人になることを夢見るリスナーの一人だった。彼は家庭の事情により,大学受験が出来ず,一時,三菱地所に勤務したが,一年後に退社し,改めて大卒の資格を取り,1967年,TBSに入社した苦労人だった。

林の登板は図らずも,突然やってきた。パックインミュージックの木曜第二部担当の久米宏が急病で降板し,その後釜に起用されたのである。林は,いわゆる正統派のアナウンサーではなく,カウンター・カルチャー畑のアングラ系DJであり,混沌とする世相や,既に崩壊過程にあった左翼的幻想勢力とも,一線を画した存在であった。朝三時から五時までの時間帯は特定のスポンサーもつかず,まさにDJの独壇場であり,したい放題の放送空間であった。「苦労多かるローカルニュース」,広告スポット「下落合本舗」など番組のリスナーに投稿を促し,参加させる新機軸を発案し,多くのファンの獲得に成功した。

林の奇策はそれだけでは無い。まだ,デヴュー間もない,荒井由実と石川セリに声をかけスタジオに呼んでライヴ・トークをさせるなど,糸居張りのラジオ・プロモートを仕掛けては,新人発掘の道筋をつけ,所謂,四畳半フォークから脱し,ニューミュージックという言葉に象徴される新たなポップスを作り出したが,1974年5月番組自体が終了となり,林の鉄火場は局外の場外乱闘に場所移すことになった。
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