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林は,音楽界と映画界,小劇場界を繋ぐオーガナイザーを勤めるようになり,日本のカウンター・カルチャーの牽引役を自認し,1970年代の深夜放送全盛時代を事実上,創出するキーマンとなっていった。未だ芸能界に知られていなかった「四か国麻雀」のタモリや,映画評論家としてのおすぎとピーコらを番組内で紹介するコーナーを用意したり,井上陽水と,やがて,その妻となる石川セリを引き合わせたり,八面六臂の活躍ぶりで,サブカルチャー自体を体現する存在に上り詰めた,と言って過言ではない。
林の担当するパックは趣を変え,守りから攻めに転じ,他局の歌番組のネームをパロり,「ユア・ヒットしないパレード」と銘打ち,斎藤哲夫,山崎ハコ,忌野清志郎とRCサクセションら,フォーク歌謡と一線を画したアーティストの紹介に努め,ポップスの新機軸を打ち出す役割にも貢献した。1980年5月,林の愛したパックは,到頭,幕を下ろした。最終日に感極まった林はエンディングテーマの流れる中,3分間にわたって,独白を中断したが,そのことについて多くを語ることは無かった。しかし,その後も,プロデューサーとしてパックに関わり,1982年7月,番組の打ち切りでは総合司会を担当した。
その後の林の動静はプレゼンターではなく,一介のアイドル的サラリーマン・プロデューサーに終始したように思われるが,彼は,カウンター・カルチャーと若者の味方であり続け,日本映画界の弛(タユ)まぬ後援者だった。サラリーマンである以上,会社の命令は絶対である。不本意な仕事でも努めなければならない。勿論,林にとって,自社は自分を育ててくれたゆりかごであり,それでこそ,我が儘も通り,我が意のままに番組を任せて貰えることができた愛すべき会社であった。林のラジオ人生を最終的に奪ったのは癌であった。1998年1月,胃癌であることを告げられた林は数度の手術にも耐え,サラリーマンに徹し,慣れぬテレビの仕事をも熟(コナ)し,思わしくない体に鞭打って,仕事を続けたが,病魔には勝てず,2002年7月,転移した癌による肝不全のため死去した。58歳だった。