ルードヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach 1804.7.28.-1872.9.13.)はバイエルンのランツフートに、高名な刑法学者ポール・アンセルムの四男として誕生した。一家は、著名な知識人・学者・画家といった人々であった。考古学者の長兄ヨーゼフ・アンセルム、数学者の次兄カール・ヴィルヘルム、法学者の三兄エドゥアルト、哲学者の弟フィリップ、画家で甥のアンセルム・フリードリヒという、名家の錚々(ソウソウ)たる面々の中で育ったルードヴィヒも、幼少より聡明で、誰にも引けを取らない明晰な頭脳を持ち主であった。1823年、ハイデルベルク大学に入学し、須(スベカ)らく、翌1824年、ベルリン大学に編入して、キリスト教研究のため、神学に勤(イソ)しんだ後、目的であったヘーゲルの講義に没入、青年ヘーゲル派の一人と目される存在になったが、1827年、神学や哲学の蓋然性に疑問を感じたフォイエルバッハは、改めて、生理学などの自然科学の知識を吸収すべく、ニュルンベルクのエアランゲン大学へ入学した。そして、翌1828年、「統一的・普遍的・無限的理性について」で、博士号を取得し、1829年から、同大学で私講師を勤めることになる。
1830年7月、フランスで7月革命が起こると、ドイツでも、各地で革命に呼応する動きがあったが、それは、しかし、やがて、領邦権力に反撃され、後退を余儀なくされるのである。同年、フォイエルバッハも、又、匿名で発表した「死および不死に関する考察」が、政府や教会からやり玉にあげられ、キリスト教の伝統を批判し、侮辱したと攻撃されて失職、その前途を危険視され、二度と教職に就くことは出来なくなってしまう。1832年、団結を誇示しようと、プァルツのハンバハに結集した自由主義者たちは、革命支持を叫び、大示威行動を展開し、気勢を上げたが、これが、ハプスブルクに与(クミ)する領邦権力・教会勢力の激しい反感と危機意識を呼び覚まし、強圧的な反動攻勢に繋がって、諸邦の運動の成果は摘み取られていく。1836年、この故国ドイツの混迷を憂いながら、ネーサン・マイヤー・ロスチャイルドは、波乱の生涯を閉じた。そして、1837年、ハノーヴァーで、革命憲法の破棄に抗議したゲッティンゲン大学の7人の教授の追放事件が起き、ここに、運動は全く沈黙する。市民は、身の危険を感じ、内向きで閉塞的な、かつ小市民的なビーダーマイヤー文化に、静かに堕(オ)ちていった。
1837年、フォイエルバッハはニュルンベルク近郊のブルックベルクの陶器工場を経営する女性ベルタ・レーウと結婚した。フォイエルバッハは既に、産業革命が何をもたらしたか、知っていた。彼は、そこで営まれている野蛮な経済活動の結果がもたらす深刻な事態を予想しており、経済と日常の間に引き起こされる経済的矛盾が人間の強欲の結果によるものであることを認知していた。過重労働が常態化し、女性や子供も酷使され、賃金も十分でなく、資本家は利益追求に囚われ、係る情況はキリスト教の友愛の精神に反している。そうした社会の偏重が生み出す矛盾と憎悪が、何(イズ)れ、大いなる悲劇を生むだろうと、彼は予感した。しかし、彼は、政治的・社会的力を信じていなかった。彼は直接的な目の前の事実を信じた。工場の労働環境の改善は、彼にとって、実態のある有意義な作業だった。
彼は、忍耐強く、著述に専念した。1839年、「ヘーゲル哲学批判のために」、1841年、「キリスト教の本質」、1842年、「哲学の改革のための予備的提言」、1843年、「将来の哲学の根本命題」、1845年、「宗教の本質」と、在野にあっても、次々と啓発の書を世に送り、その影響力の底力を示した。その著作において、フォイエルバッハの哲学の神髄は、“人間無くして人間にとっての神は存在せず、それ故、人間は人間にとって神である”、とし、ヘーゲル論理学の“存在”とは、実に、“思考”に他ならない、ヘーゲル現象学も、実は、現象学的論理学に過ぎない、と指摘し、神学の本質、及び、その真実の本質とは、人間そのものを探求する人間学に他ならない、と結論した。そして、宇宙の実体は人間と自然であって、これこそが思考の構造を形作るものであり,物質そのものである、とした。それは、俗に、唯物論と通称される。
こうした新機軸が、当時の社会に与えた衝撃は計り知れないもので、フォイエルバッハと俗習に塗(マミ)れたキリスト教や功利的に過ぎる社会通念の蔓延(ハビコ)る世間との対立は決定的となった。しかし、彼の立場は有利とはいえなかったが、孤立したわけではなかった。彼の熱心な若い読者は、多くはヘーゲル主義者ではあったが、彼の共鳴者であり、次第に、熱狂的な支持者となっていった。その中には、カール・マルクスがおり、フリードリヒ・エンゲルスがいた。彼らは、ヘーゲルから弁証法を継承し、フォイエルバッハから唯物論を受け継いだ。フォイエルバッハの哲学は、人間の自存と独立をその考えの基本とした、比較的解り易いもので、一般に受け容れられたが、彼自身は政治的野心を持つことは無く、結局、“革命の年”1848年も、2月にハイデルベルクで、宗教に関する講義をしていた、と記録されているだけで、具体的な動きは伝えられていない。事態を静観するに留まっていたようである。 革命の年が過ぎ、彼が怖れていた反動の嵐がやってきた。沈黙がささやかな時間を刻んでいく、それだけの毎日。何時(イツ)しか歳月は流れ、愛妻の生き甲斐であった工場も、1860年、破産した。良心に頼った労働環境の改善も露と消え、一家は住み慣れたブルックベルクを追われ、レッヒェンベルクへ居を移さねばならなかった。フォイエルバッハは、既に、過去の人であった。1866年、最後の著書「唯心論と唯物論 特に意志の自由に関して」を刊行、愛の精神を説く人間主義的唯物論を展開し、倫理や幸福論について語ったが、それは、加齢と共に論理的構築力を失いつつある老人の説得力を欠いた文章であって、それ以上のものでなく、社会に影響を及ぼす力は、もはや、無かった。その後のフォイエルバッハは、病弱となり、貧窮の中、衰弱して死を迎える。1872年9月13日死去。68歳。