幸福の輪[Wheel of Fortune];煉獄への誘い その10


幸運の輪[Wheel of Fortune];煉獄への誘い その10


花かおり 月霞む夜の手枕に 短き夢ぞ なほ別れ行く  (玉葉和歌集)

 舞台には幕が降りつつある。春の夜のひととき,うとうとと,為相(冷泉為相 1263-1328.8.22.)は,別れの切なさや遣る瀬無さを振り返り,その邂逅の縁(エニシ)の不思議に想いを馳せていた。あの頃は,どこに行っても,若さに引っ張られるように様々な人々が自分を待っており,歓迎してくれた。それは辛苦の日々もあった。しかし,総じて自分は運のよい方で,困難を克服することができた。幸運な人生と言えた。それがもう老境という年齢となっている。光陰矢の如し。苦境にあった時の恩人たちも今はもういない。人生とは,こんなにも意義あるものだったか,と顧みて思う。

夏の陽射しも,今は眩しく,その輝きに付いていくのが難しい。

“Don’t be that way” ベニー・グッドマン(Benny Goddman 1909.5.30.-1986.6.13.)

ヒトの暮らす極北の地をUltima Thuleと欧州では言うらしい。そこは遥かなる最終帰順地であり,永遠(トコシエ)の、寂寞・寂滅の故郷ということになるそうだ。そこは,使命を解かれ,休息を許されたすべての同胞(ハラカラ)が集まる地であるという。そこは欧州人の安寧のnirvana(paradise)かもしれない。


「恩という一語の如く 月ありて 黒阿蘇の辺(へ)に 生をえらびき」

 清田由井子(Yuiko Kiyota 1936.7.4.-2019.10.17.)阿蘇の歌人。


ボクたちは,錯覚(illusion)を生きている。ボクは以前,人生は仮面劇かもしれないと言った。誰しもが、皆、それぞれに、空想の一人芝居に耽り、喜怒哀楽を繰り広げ、泣き笑いして、終わるだけ,とも書いた。それは,虚しくもあり、可笑(オカ)しくもある劇中劇なのだ,としたら,ボクたちは皆喜劇役者だったのだろうか?そして,幕は下りる。地球というこの惑星の上で繰り広げられた一編の劇として。

しかし,現実の世界は疲れ切っていた。仮面の仮想空間ではなく,確かな人間の絆が必要とされる現実がそこにあった。絆は重荷になり,分断がそれに取って変わりつつあった。子供たちは拗(コジ)れた人間関係に疲れ,大人たちは無能で無責任な政府による放漫経済に疲れ,街も村も,亡霊に憑かれたように時勢に流され,劇中劇は暗転となり,醜い現実が顔を見せ始めていた。様々なイザコザが、軋轢(アツレキ)を生み,人々に纏(マト)わりついて離れようとせず、逃れようとする者には執拗に取り縋(スガ)り,柵(シガラミ)を取り払い分断のクレパスを越えようとする者達は疎外され,孤立した。

Ultima ratio for ultimate beneficiary(最終受益者のための最終討議)

春雪。spring snow。
近道は無い。淡い雪は消え、春に吸い込まれていく。されど、歩みは鈍(ノロ)く、春泥に足を獲られ,振り返り、振り返りつつ、遠去かっていく過去を見送る。悔恨は拒まれ、前を向く勇気もなく,虚無感に押し戻されて,ドップリと悲観に浸(ツ)かり,何をする気力も無く,欠伸(アクビ)をし,目を瞑り、春色の風をやり過ごす。それが暖かい風の齎(モタラ)す呪縛であることに気づく頃には眠りは深く,昏睡状態である。

呪縛;心理的に意思を封殺、判断力を奪い、身体を拘束する。

Ferdinand Tonnies(1855.7.26.-1936.4.9.)の情念と理念の2局面である、ゲマインシャフトgemeinschaft(地縁・血縁・友人)とゲゼルシャフトgesellschaft(利益享受者・同業者)に分解して、社会構造の変化を説明する試みは、産業の担い手の歴史的変遷を知る上では有効であったが、定点観測の域を出ず、寧ろ、社会進化論的風潮の一説として流布され、誤解を招く結果となった。しかし、言葉だけは生き残り、後日、ゲマインシャフトは、有機的共同体、と訳される。


仏教では、宇宙の最高原理である梵(brahman)が人格を伴って、梵天として登場するが、本来のインド思想にあっては、自然natureそのもの、或いは偏在する原理、又は、真理を指していた。又,我(atman)とは、身体の中にあって、個人(他人)と区別し得る不変の個の実体(魂のようなもの)として考えられ、真我と漢訳されている。ヴェーダでは梵我一如と記され,生命と宇宙は一体のものと解釈される。

人間は真理を追い求めてきた。しかし,それは幻想に過ぎなかったのかもしれない。即ち,それは,錯覚を追い求めているに過ぎないからだ。ただ、ひたすらに、ひたむきに、黙々と身を粉にし、働いて、働いて、働いて、死んでいく。それだけで,実は満足すべきなのかもしれない。一切とはそういうものなのかもしれない。専心熟考し、死の淵まで行き、真理を見定めようとしてもそこには何もない。ただ,腐熟な電脳社会を前に,溜息をつき,自分が朽ち果てるのを待つだけの人生だったと思うしかない。人間の叡智など,遠く及ばぬところに,この世界の真理はあるのだ。それを求めることが,精一杯生きた,ということになるのだろうか?
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