Melponemeの渇き 序章


Melponemeの渇き 序章

(Melponeme(メルポネーメ)とは,悲劇の女神,のことである。)
 
少なくとも,20世紀半ば位まで,人々は,放浪する魂という,因循な世界観に縛られてきた。それは閉じられた円環で繰り返される循環運命論である。人間は時空を超え,過去にも未来にも魂となって生き続けるというその思想を,つまり,現世,来世,前世にも同時に自分は生きているという観念を半信半疑のまま信じていた。それは,東洋では仏陀の教えとして,宿命による業を克服するための行の結果として,大願成就の暁まで,円環の中を転生し続ける輪廻によるとされた。だから,一人一人の持つ縁(エニシ)という因縁により,未来なら未来,現在なら現在,過去なら過去で,それぞれにその時の時代時代で一期一会を体験できるとされ,それは実は,同時並行的体験であることもある,という。

即ち,出逢いという縁はどの時代であっても,本人同士が気づくこと無く,遭遇する運命にある。それは,ニーチェの言った永劫回帰とは,また違い,同じ人生を繰り返し生きるのではなく,同じ因果を背負った者同士が,業を落としきれず,異なる時空で出逢いを繰り返し,人生という旅を続けることを意味した。その邂逅の記憶が自覚されぬまま,自我の底流である大脳皮質にに蓄積されているのは間違いない。そこには,眠りや夢に関わるDNAや祈りや誓いという信仰のシステムに関係する自覚されない遺伝情報を取り仕切るDNAも機能していると考えられる。

人間が全DNAのゲノムを解析するころには,ある種の哲学の一般的モデルは,脳生理学とDNA解析から発展した遺伝子情報工学の時代に移っていくものとなるだろう。しかし,どんなに電脳が発達しようとも,意識の形成とその構造を明らかにすることは22世紀になっても混沌の域を脱することは難しく,況して生命の総合的研究は思いのほか進展しないのではないだろうか。

「至上の愛」だけが信仰の対象であり,いかなる神でも信じようと語ったと偉大な巨人ジョン・コルトレーンのサックスの音の渦中に答えはあるかもしれない。そのソウルフルな全音階を揺れ動く聖者の響きを背にジャズ喫茶から外に出ると,いつもの排ガスとエンジン音と雑踏だけの,精霊とは縁も所縁(ユカリ)も無い日常が,展開されている。戦争も気候変動も,処置なしの瞞着(マンチャク)である。人間が正しくヒューマン・ビーイングとしての存在となるのは何時のことだろう。神が神に祈る時,幸せな者達だけが幸せであってはならない。不幸を背負っている者達もいることを忘れてはならない,と,彼は説くことは出来るだろうか。ボクの内在は卑怯で傲慢なのか。内在に忠実であろうと,勤めてみても,打算と虚飾は隠しようもない。やるべきことはやっているつもりだが,それも微々たるものだ。ただ,眠れることはいいことだ。眠りは休息を齎(モタラ)すが,夢は見ない。
2022年07月04日
Posted by kirisawa
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