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観想theoriaとは,自分自身と世界(自然)との合体一致を可能にするための行かもしれない。それは諸々の欲求を減殺し,思考を停止し,覚醒した自己となり,自律した個として世界の,風景の中に溶け込み,静穏を得るための行であるのかもしれない。しかし,それは禅や瞑想で得られる無や虚や空といった内向きな悟りでは無く,実存という存在そのものと自己の内在との合一性に依拠するものである,とも言える。自然は自然であって他の何者でもなく,世界は世界であって,他の何者でもない。それは自明の理であり,観想とは,その未知ならぬ道を照らす具象化された内在であり,これまでヒトの歩んだ道でもあり,これからも歩む道であることに変わりはない。そして,真理への渇望は悟りによって満たされるものでは無く,カルマの言うところの業は如何なる行によっても解消されるものでもない。何故なら,自らの存在を否定し,末梢に至るまで自分自身を解体したとしても,存在する自分自身を滅することはできないからだ。脳の報酬系のシステムを制御できたとしても,それを断つことは死を意味する。
エネルギーの負の側面を考えてみると,視考も運動も,酸素の欠乏を招く行為である。諸々の運動には栄養の補給,休養が必要である。つまり,リセット,ニュートラルな状態への復帰が必ず必要になる仕組みが内包されている。即ち,ヒトの生活には運動は勿論,視考にも,ドーパミンの報酬系にも限界があり,その許容できる範囲でしか正常に機能しない。こうした制約は,訓練により,ある程度まで深化できるだろうが,そこには必ず,ヴァニシング・ポイント(限界点)があり,それはヒトの,個々人のメンタリティと相関関係がある。この心の持ち方という極めて不安定な情緒的感性についてヒト社会は労りや慰めといった同調共感システムで対処してきたが,それは今,「脳疾患」生理学として学術的に観察・診療が行われる時代となっている。
「我思う,故に我在り Cogito ergo sum」というデカルト(Rene Descartos 1596.3.31.-1650.2.11.)の自己意識の表明に纏(マツ)わる,近代の認識論を出発に,自己とは何か,という議論がヨーロッパに巻き起こり,それはやがてフロイド(Sigmund Freud 1856.5.6.-1939.9.23.)に受け継がれて,現象観察と原始的な推論による心理学の対象になる。フロイドの仮説を証明することは当時の生理学には無理があり,解剖学的所見によって,世代間の行動や生理的反応の偏ったデータが得られたに過ぎなかったが,その注目すべき点はこの進化には目的がある,という確信を持たせたことであろう。それは予定調和的史観に裏打ちされた還元主義に違いなかったが,それでも当時としては画期的な進歩と言えた。
今,ウクライナで起こっていることは,全てプーチンに責任がある。彼が戦争を決断した背後には彼の世界戦略があり,彼は自身が権力者であるうちに,ソ連邦の復活を成し遂げようという野心を常に持っていたのである。彼は少なくとも,ソ連邦の衛星国家であった中央アジアからウクライナまでの地域を平伏させ,事実上の帝国を作ろうとしていたのであり,中露を軸に大ロシア主義と中華帝国による世界支配を夢想したのかもしれない。今,戦争という手段は外交力の無い寡頭支配の国家の最有力の手段ではあるが,プーチンのような下工作だけに固執する帝王も稀である。彼を突き動かしているのは衝動であり,それはフロイド流に言うなら性的なものと言えるだろう。つまり,本能的,および原罪的な追い詰められた情緒的な感性の発露だったのかもしれない。