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フリードリヒの遠征中,グレゴリウス9世は北イタリア諸都市を唆(ソソノカ)して南イタリアを攻撃した。皇帝は帰国すると都市を占拠していた教皇派の軍隊を撃退し,教皇を威嚇して,和議に持ち込むことに成功した。1230年,チュートン騎士団と皇帝側の譲歩で,サン・ジェルマノの和約が成立し,皇帝の破門は撤回された。又,やはり破門とされていたヴェローナの領主エッチェリーニ・ダ・ロマーノの破門の撤回,港湾都市ガエータの帝国への編入も決議され,教皇側の敗北は決定的となった。1231年,フリードリヒはメルフィで会議を開き,かつての皇帝たちが施行した法令を編纂した「皇帝の書(リベル・アウグスタリス)」を発布し,皇帝の絶対権力化を図った。その内容は,次の7項目に集約できる。聖職者・貴族・都市の権利の制限。司法・行政の皇帝の権力の集権化。税制・金貨の統一。貧民の無料の職業訓練と診療。私刑の禁止。薬価の制限。役人への不敬・賄賂の禁止。であり,シチリアにおいては,権力の維持・拡張のための集権体制の法制化がなされた。それは古代ローマ帝国の権威を復興させることを企図したものであり,その法令を周知させるための会合(コロックイア)を開かせることで徹底され,それは地方行政官(ポデスタ)の任命により,北イタリアの諸都市にも及んだ。さらに,1232年に開催されたフリウリの諸侯会議を経て,ヴェローナを帝国領に編入させ,領主エッチェリーナを皇帝の代理人に任じた。
官僚による集権体制を整えつつあったシチリア方面と異なり,ローマ王ハインリヒの統治する帝国北部では,依然,封建諸侯・高位聖職者による分権支配のままであり,経済的にもイタリア諸国に依存する体質から脱却することは困難な状況にあった。ハインリヒは,この構造的後進性を打開すべく,諸侯の領地経営に介入したため,諸侯の反発を買い,進退窮まった。1231年,ヴォルムスで「諸侯の利益のための協約」を締結した守旧勢力は,既得権の保持を皇帝に認めさせるという,ローマ王を無視する反撃に出た。一方,皇帝から圧迫を受けていた教皇グレゴリウス9世はこの機を捉えて,皇帝とローマ王の離間を図るべく,ハインリヒに皇帝に対して反抗するよう教唆した。教皇はロンバルディア同盟の復活を図り,1234年,ハインリヒに反乱を起こすよう陽動し,帝国の分断を画策したが,ロ-マ王の反乱は忽ち,皇帝に鎮圧され,1235年7月,ハインリヒは降伏した。皇帝は,再び,ヴォルムスに諸侯を集め,自らのイングランド王女イザベラとの婚礼を行って,ハインリヒの王位と継承権を剝奪し,両眼を潰してブーリアの城に幽閉した。画して,ハインリヒの無謀なる企ては悉く瓦解し,フリードリヒは,帝国全土の安全が確立されたことを表明し,マインツで行った集会で,ホーエンシュタルフェン家とヴェルフェン家の和解とラント平和令を発布した。しかしながら,北イタリアのロンバルディア同盟の諸都市はフリードリヒの圧力には屈せず,抵抗を続けたため,1236年春,皇帝軍はロンバルディアに侵攻することを決議し,イタリア遠征を通告した。1237年2月,フリードリヒはウィーンで集会を開き,次子コンラート(Konrad Ⅳ 1228.4.25.-1254.5.21.)をローマ王に就け,予告通り,イタリアに侵攻した。11月27日のコルテノーヴァの戦いでフリードリヒの軍はロンバルディア同盟軍を撃破,勝利したが,教皇側の画策でミラノを屈服させることができず,皇帝軍は講和を拒むブレシアの包囲にも失敗し,又,ヴェネツィアとジェノヴァが教皇側に加勢したため,遠征の成果は半減してしまった。1939年,グレゴリウス9世はフリードリヒが庶子エンツィオ(Enzio 1220?-1272.3.14.)に与えたサルディニア王位を剥奪し,再び,フリードリヒを破門した。帝国は皇帝派と教皇派に二分され,争乱は一般市民にまで波及し,教皇はフリードリヒをアンチキリストと呼び,フリードリヒは福音にかなった清貧を説いて教皇と対抗した。さらにフリードリヒは教皇側の公会議に参加する者を敵とみなすと脅しをかけ,参加しようとした聖職者を投獄した。
1241年,グレゴリウス9世は死去し,次に選出されたケレスティヌス4世(CaelestinusⅣ ?-1241.11.10.)も在位17日で没したため,次のコンクラーヴェは延期された。皇帝は,2人の枢機卿を幽閉してこのコンクラーヴェに介入して1年半延期させ,教会の影響力を削ごうとした。1242年2月,ハインリヒは別の幽閉先に移送される途中,谷底に身を投げて自殺し,1243年,インノケンティウス4世(Innocentius Ⅳ 1195?-1254.12.7.)が教皇に就く。しかし,皇帝の専横と非難するロンバルディア同盟の諸都市に加え,ジェノヴァ出身の教皇の反発は強く,フランス王ルイ9世(Louis Ⅸ 1214.4.25.-1270.8.25.)の仲介も空しく,1244年,フリードリヒが人質にしていた二人の枢機卿は釈放され,教皇もリヨンに脱出して,皇帝は窮地に立たされた。1245年6月26日,教皇はリヨンで校会議を開き,フリードリヒの廃位と封建家臣の主従関係の解除を宣告し,帝国領内で反フリードリヒに対する武装反乱を先導した。掛かる事態に教会側の奪権の意図を読み取った諸侯はフリードリヒの側に立ち,直属のイスラム部隊の奮戦もあり,争乱は収束するかに思われたが,1246年の復活祭前日のフリードリヒ暗殺工作が露見し,1248年には,パルマも陥落,劣勢に立たされたフリードリヒではあったものの,1250年8月,コンラートらの教皇側への反攻により事なきを得た。その年の秋,鷹狩りを楽しんでいたフリードリヒは激しい腹痛に見舞われ,急逝した。55歳だった。
フリードリヒは中世に現れた近代的君主という評価を受けることが多い。それは,彼の生い立ちからしてからが,ほぼ地中海世界全域から欧州中央部を占める広大な領土の君主であったことと無関係ではない。彼はその地域はもとより,その周辺部も含めた言語や文化に通じ,多文化共存という環境の中で育ち,宗教的にも固執することない生涯を送った英明な統治者であったのであり,金銭欲や名誉欲に囚われることの無い名君であった。従って,表面的にだけ,信仰の仮面を被った欲得付くの腐敗した教会とは基本的に相容れなかったのは当然の事であり,早すぎた統治者だったと言える。彼の死後,コンラート4世が権力の地位に就いたが,1254年早世し,ホーエンシュタルフェン家は断絶し,ホラント伯ウィレム2世が教会側の対立王としてローマ王を継承する。そして,皮肉にも,このウィレム2世が初めて名乗った国号こそが神聖ローマ帝国であった。その後,大空位時代を経て,ドイツは帝国とは言えぬ,封建諸侯の乱立する分権領邦国家群に過ぎない一地方となってしまい,1273年には,オーストリア=ハプスブルク帝国に吸収されることになるのである。