知略と交渉,フリードリヒ2世(2);ドイツ 7


知略と交渉、フリードリヒ2世(2);ドイツ 7


1209年,成年を迎えたフリードリヒは10歳年上のアラゴン王国の王女コンスタンツァと婚約し,正式にシチリア王位に就く意志を表明した。コンスタンツァは彼にプロヴァンス語と洗練された潤いのある宮廷生活を齎(モタラ)した。一方,インノケンティウス3世は,フリードリヒの庇護者としての役割を十分果たしていなかったことを自覚し,復讐を怖れ,オットー4世のローマ王戴冠を強行して,帝位を承認した。この事件は,ヴェルフ家とホーエンシュタウフェン家の対立に再び火を点ける結果となり,教皇を非難する反乱が各地で起き,インノケンティウス3世は責任を回避すべく,教皇領やシチリアに侵攻したオットーを破門した。これを受け,1211年,諸侯はニュルンベルクに集合し,オットーの廃位とフリードリヒのローマ王選出を行い,帝国辺境北部ドイツへ進駐するように要請した。
これより先,教皇が出したシチリアへの教皇の宗主権の確認と生まれて間もないハインリヒへのシチリア王権の譲位を承認することを条件に,1212年,フリードリヒの軍勢はアルプスを越えた。

12月5日,フランス国王フィリップ2世(Philippe Ⅱ 1165.8.21.-1223.7.14.)と教皇の使者の見守る中,フリードリヒはローマ王に選出され,12月9日,マインツで戴冠した。フリードリヒはフランスからの援助も受け,諸侯に対しては,特許状を発行して,支持を集めて吝嗇(リンショク)な性格のオットーに対抗した。1212年,ブーヴィーヌの戦いでオットーは敗北し,フリードリヒは改めて名実ともにローマ王として承認され,1215年,アーヘン大聖堂で正式にローマ王の戴冠式が行われた。又,この時,十字軍の遠征に参加することも併せて決まった。画して,権力抗争に明け暮れたインノケンティウス3世は1216年,この世を去った。

フリードリヒは,新教皇ホノリウス3世(Honorius Ⅲ 1148-1227.8.18.)からの要請で十字軍に従軍することを条件に帝位を公認されたが,フリードリヒが十字軍に参加することは無かった。1217年,第5次十字軍も,諸侯と聖職者の意見の対立から失敗に帰しており,教皇はフリードリヒの不服従に業を煮やし,十字軍の派兵に賛同すること求めた。しかし,これより先,1220年,フリードリヒは子ハインリヒを共同統治者としてローマ王の地位を与え,ハインリヒとその顧問団に帝国の北部方面の統治を委ねて,パレルモに戻り,シチリアを中心に,地中海世界の統治と経営に乗り出した。1222年,フリードリヒの妻コンスタンツァは死去した。そして,間もなく,知略の皇帝はエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌと図り,その一行のシチリア上陸を許し,共にローマに向かった。ローマでは,教皇を中心に十字軍の東方遠征の議論が交わされており,教皇はフリードリヒに十字軍への参加を改めて要求したが,フリードリヒは動ずることは無かった。そして,その協議の場で,フリードリヒとブリエンヌの娘ヨランド(イザベル)との結婚,結婚後2年以内のフリードリヒの十字軍への参加を取り決めるというウルトラCをやってのける。1225年11月9日,フリードリヒは,成人したヨランドと再婚し,同時にブリエンヌからエルサレム王位とヨランドの有する王室の諸権利を譲渡された。執拗に十字軍への派兵を強制した教皇ホノリウス3世も,1227年に死去し,第6次十字軍の派遣は,フリードリヒの手に握られた。  

ホノリウス3世の跡を継いだグレゴリウス9世(Gregorius Ⅸ 1143?-1241.8.22.)とフリードリヒの意見は全くかみ合わず,教皇は破門をちらつかせて,約束の履行を迫った。1228年,秘策をもって,フリードリヒは4万の兵を率い,エルサレムに向かった。しかし,その行軍は疫病という不測の危難に見舞われ,聖地の土を踏む前に頓挫してしまう。その途上,サレルノ大学の衛生学を知ったフリードリヒは毎日入浴して体を洗う習慣を持つことを学んだ,という。この知らせを聞いた教皇は,進軍を拒むための仮病と決めつけ,フリードリヒを破門した。十字軍は行き場所を失い,キプロスの政争に巻き込まれてしまい,現地の将兵は従わず,フリードリヒは孤立無援の,窮地に立たされた。

一方,エルサレムを実効支配するアイユーブ朝のスルタン,アル・カーミラはアラビア語にも堪能なフリードリヒの噂を聞き付け,書簡を送った。このフリードリヒとアル・カーミラの交友によってエルサレム問題は血を流すことなく,解決への道が開かれることになった。1229年2月11日,アイユーブ朝が10年間の期限付きでエルサレムを一時キリスト教徒に開放する,という宗教協約,ヤッフェ条約が締結され,宗教的寛容をもって,両者の友情は実を結んだ。しかし,斯かる成果も現地の騎士修道会で協力的で賛意を表したのは,チュートン騎士団のみであり,聖ヨハネ騎士団もテンプル騎士団もこの合意を認めず,同行した司祭たちですら,皇帝の行動に反対した。フリードリヒはそれでも,1229年3月18日,自ら,聖墳墓教会において,エルサレム王に戴冠すると,チュートン騎士団に後事を託し,自らは軍団を率いて,反対派の拠点,アッコに移動し,テンプル騎士団の本部を数日間に渡って包囲したが,5月1日,皇帝は包囲を解き,帰国の途に就いた。
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