知略と交渉,フリードリヒ2世(1);ドイツ 6


知略と交渉、フリードリヒ2世(1) ;ドイツ 6


 父の遺領を受け継いだハインリヒ6世(1165.11.-1197.9.28.;在位1191-1197;シチリア王1194-1197)ではあったが、その一生の大半はイタリア経営と諸都市の反乱の制圧に忙殺される羽目になり、ドイツにおいては、皇帝不在という一種の政治的弛緩状態にあって、ヴェルフェン家を中心とする勢力が、イギリスへ追放されていたハインリヒ獅子公と通謀して反乱するなど、地殻変動の兆しが表れていた。既に教会の魔手が迫り、国内においては、聖俗を問わず、反目し合う勢力はそれぞれ外国と結び、一触即発の危機が眼前にあった。それでも王は、地中海上の島嶼(トウショ)域へも進出し、1194年には、シチリアを手に入れ、帝国を海洋国家の一隅に押し上げ、イタリア半島を南北から挟撃する体制を整えた。ところが、本国の不穏な空気に加え、ようやく、戴冠した皇帝の下に届いたのは、手に入れたばかりのシチリアで反乱が始まったという報せであった。一時的に収まった反乱も、再び活発化し、皇帝自ら鎮圧に向かわざるを得ない事態となっていた。而(シカ)して、ハインリヒ6世には降ってわいたような不幸が待ち受けていた。反乱鎮圧に向かった皇帝はマラリアに罹患(リカン)したのである。1197年9月28日、ハインリヒ6世は不慮の死を遂げた。31歳。

 ハインリヒ6世の呆気ない病死によって、フリードリヒ2世(1194.12.26.-1250.12.13.;1197-1250 シチリア王、1220-1250.12.13. 神聖ローマ帝国皇帝在位、1225-1228 エルサレム王)がホーエンシュタウフェン家の継承者となったが,まだ3歳に満たぬ幼児であり,家政を見ることは不可能だった。そのため,母コンスタンツェ(Constanze d‘Altavilla 1154.11.2.-1198.11.27.)が摂政となり,ハインリヒ6世の弟シュヴァーベン公フィリップ(Philipp von Schwaben 1177-1208.6.21.)が後見役になって,フリードリヒの統治は事実上,この二人の手に委ねられることになった。
シュヴァーベン公フィリップは,王位を狙うラヴェンナ公マルクヴァルトと競い合ってフリードリヒを傀儡(カイライ)にして事実上の王として振舞い始め,それを阻止するため,コンスタンツェはローマ教皇インノケンティウス3世(InnocentiusⅢ 1161.2.22.-12167.16.)に助力を求めるに至った。1198年5月17日,教皇は,シチリアの宗主権と引き換えにフリードリヒをシチリア王として承認したが,ローマ王を巡るヴェルフ家のオットーとの争いは続き,苦悩したコンスタンツェは11月27日,病により不帰の人となってしまった。教皇は,直ちに,後に教皇ホノリウス3世となるチェンツィオ・サヴェッリをフリードリヒの家庭教師に就け,フィリップだけに権力が集中することを避けようとした。1208年6月21日,フィリップが暗殺されると諸侯も挙(コゾ)って,ヴェルフ家のオットー(Otto Ⅳ 1175-1218.5.19.)をローマ王に推挙することに決し,11月,教皇はこれを追認する他なかった。

教皇は,フリードリヒのために,高位聖職者を含む家庭教師を執権役としてシチリアに派遣したが,4歳のフリードリヒは既にラテン語を習得しており,歴史と哲学の書籍を読みこなすほどの学才で周囲を驚かせた。幼少のフリードリヒは,1202年から1206年までの間,マルクヴァルトに人質にされるなど,周辺の人間たちの思惑に翻弄される日が続いたこともあって,生活も困難を極め,パレルモの市民からの援助で生活していたこともあった。しかし,この困難な時期に,ラテン語・ギリシャ語・アラビア語にも精通し,6か国語を操る国際人に成長したフリードリヒの眼には地中海世界から北方のドイツ辺境の地域までを俯瞰(フカン)する力が宿っていた。
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