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1842年11月、エンゲルスは、マンチェスター西部ソルフォードに向かっていた。そこには,父親が出資した「エルメン&エンゲルス商会」の紡績工場があり,彼の経営能力が試されることになっていた。しかし,エンゲルスは,その意に反し,中間層とのパーティーやセレモニーに出席することもなく,工場で働く400人の労働者との交流に時間を割き,その貧しくやるせない生活ぶりに触れ,1845年,「イギリスにおける労働者階級の状態」を出版する。このフィールドワークの案内役となり,間もなくエンゲルスの愛人となったメアリー・バーンズ(Mary Burns 1821.9.29.-1863.1.7.)は,アイルランド系の低賃金・長時間労働に耐えて働いてきた女工だった。
エンゲルスは,ここでロバート・オーウェン(Robert Owen 1771.5.14.-1858.11.17.)のチャーティスト運動を,初めて目の当たりにする。弱者を救済しようという真っ当な使命感を抱いて、その労働者階級の普通選挙権を求める民主的改革の実現を目指す姿勢には共鳴するものの,自分のパッションの発露を諸般の運動に求めることになるのであるが、余りにも、理に聡く、知に優れた頭脳は、感性の捉える現実をあからさまに承認せず、やはり、どこか、怜悧な客観的・経済学的視点で理解するため、最終的に、彼を運動の主体から遊離した善意の救済者ではなく、急進的理論家たらしめることになってしまうのであった。しかし,この時代、経済学は、まだ、定義付け、すら、定かでなく、と言うより、現象の推移の追認を行っている段階で、しかも、言葉の意味付けに終始していたに過ぎず、分析自体、因果関係の憶測に頼り、実証的でなく、数値的根拠も乏しく、実体から程遠い、空虚な空想上の机上の議論に幻惑されていたに過ぎなかった。この、安直な、お手盛りの経済学という発展途上のアカデミズムの罠から抜け出せず、自分自身を見失っていることにも気づかないエンゲルスにとって、時代は余りにも、過酷というしかない。
1842年12月、プロイセン当局は、増えすぎた新聞などの出版を制限することを決定し、域内の検閲を強化した。この取り締まりの結果、1843年3月、マルクスの「ライン新聞」は、ロシアを反動の支柱と誹謗した、として当局から名指しされ、廃刊を命じられてしまった。この頃、「ライン新聞」にはエンゲルスも、イギリス社会に関する報告を寄稿しており、外国情報もよく掲載されていた。一方、ザクセンのドレスデンで発行されていたアーノルト・ルーゲ(Arnold Ruge 1802.9.13.-1880.12.31.)の「ドイツ年誌」も廃刊となり、ルーゲはマルクスを誘って、当局の手の届かないパリか、ブリュッセルで「独仏年誌」を発行する計画を提案する。失職中のマルクスは、年俸850ターレルという報酬に釣られて共同編集長を引き受けることになる。この様な変転を経て、1843年6月、マルクスは故郷トリーアの婚約者で貴族の家柄のイェニー・ヴェストファーレン(Jenny von Westphalen 1814.2.12.-1881.12.2.)とプファルツのクロイツナで結婚式を挙げた。
この頃、ドイツでは、フォイエルバッハの著書が一世を風靡、出版界を凌駕していた。時代は確実にヘーゲルからフォイエルバッハへシフトしており、マルクスもこの流れに乗って人間主義的唯物論に傾斜していく。一方,エンゲルスは当時の非人道的な原始的資本主義の本質を既に見抜いており,チャーティスト運動の指導者たちが現実をどう見るかを知るため,有力紙「ノーザン・スター」の事務所に赴き,急進活動家ジョージ・ジュリアン・ハーニー(George Jurian Harney 1817.2.17.-1897.12.9.)と会見した。しかし,その結果は,エンゲルスの予想していた通り,議会の民主化という,可及的速やかな対処法ではなく,飽くまでも原則論に終始する,実現の見通しの立たないものであった。二人は,現実的な対処法では立場を異にしたが,お互いの善意で結ばれ,以後長く交流を続けることになった。
1843年10月,マルクス夫妻はパリに移った。1844年2月,マルクスは「独仏年誌」の発行人となり,「ユダヤ人問題によせて」と「ヘーゲル法哲学批判序説」を掲載,この中で,「大事なことは政治的解放ではなく,市民社会からの人間的解放である。」「哲学が批判すべきは宗教ではなく,人々が宗教というアヘンに頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家,市民社会,そしてそれを是認するヘーゲル哲学である。」つまり,ここでマルクスが論じたのは,「労働の主体であり,市民社会の階級の一部でありながら,国家からも,市民社会からも疎外され,徹底的に人間性を奪われ,収奪・搾取の対象になっているプロレタリアートの人間性を回復せよ。」ということである。
マルクスはパリで開かれる労働者の集会で自信を深め,自分が人間解放の哲学者として認知されるようになったことを喜び,1844年8月のフォイエルバッハ宛の手紙で労働者集会を礼賛している。尚,この雑誌でエンゲルスは「国民経済学批判大綱」を寄稿し,私有財産制度を批判し,資本は公共財と見做すべきであると述べている。
1845年,エンゲルスは資本主義の本質とは何かを端的に著した名著「イギリスにおける労働者階級の状態」を刊行した。これは,資本主義自体を社会病理と断じたトーマス・カーライル(Thomas Carlile 1795.12.4.-1881.2.5.)の認識を踏襲したもので,自身の実体験を含め,何の規制も無い労働サイドへの矛盾の押し付けによって富を得る経営サイドの非人間性を明らかにしたものである。マルクスとエンゲルスは,経済構造と言う非制度的矛盾に行き着いたが,これは労働の成果と分配という問題として現代にも相通じるものである。しかし,彼らが何を間違えたか,と言うと,それは,欲望と自由の履き違いは経済体制と無関係なものだった,ということである。彼らの目指した人間解放の思想は,皮肉なことに,権力欲を持った独裁政治を生む大きな動機となって,20世紀に花開く。