列伝series phase 1 糸居五郎(1)


だから、外を見ちゃイカン、て。何気なく、通りすがりの赤坂のラジオ局の道すがら、青年は何か見てはいけないものを見てしまう。占領軍のアメリカ兵の忌まわしい振舞いに見て見ぬ振りするしかない、やりきれなさ、か?それも感じない気力の無さ。それなのに、あの夜のラジオから聞こえてくるあの人たちの歓びに満ちた音楽番組。この落差の裏にある、あの人たちの社会にもある貧困と豊かさ。喜怒哀楽を唄う歌手たち、ダンス音楽を演奏するジャズマンたち、そして、この陽気で明るい、生きる励ましの言葉をくれるディスクジョッキーが、困難の中で生きる人々、疲れ切った人々、悲しみに暮れる人々、そして、先の見通しの立たない、多分、前途多難なボクに、明日へ向かう勇気と希望と癒しを与えてくれている。ボクは一人じゃない。二人でもない。皆が、このラジオの電波の向こうでつながっている、皆がいるのだ。ラジオは素晴らしい。素晴らしい発明だ。

そして雪解けが進まない冷戦構造の中、容赦なく、時は過ぎ、朝鮮分断の悲劇的戦争を経て、世は、いつしか、自由謳歌の時代へと流れ込んでいく。糸居五郎(1921.1.17.-1984.12.28.)は、1954年7月、ニッポン放送の子会社の(株)深夜放送に入社、「深夜のDJ」の担当となった。これより先、ニッポン放送は、7月15日に開局する。その第一声「ただいまから開局いたします」とアナウンスしたのは、誰あろう、糸居、その人であった。1959年10月、「オールナイトジョッキー」(「オールナイトニッポン」の前身番組)の担当となった糸居は、1963年2月、イギリスの驚異の四人組・音楽集団、ザ・ビートルズのデヴュー盤、「ラヴ・ミー・ドゥー」を日本で初めてオン・エアした。それは日本DJ史に残る、画期的出来事であり、歴史的事件だったのである。

直ぐに怪物番組となる「オールナイトニッポン」の放送が始まったのは、1967年10月のことである。10月2日、月曜日。「ハーイ!ハイ、こんばんは。オールナイトニッポン、ゴーゴーゴー!!アンド ゴーズ・オン!夜更けの音楽ファン、こんばんは。明け方近くの音楽ファン、おはようございます。君が語り、ボクが唄う時、新しい時代の夜が生まれる。太陽の代わりに音楽を、青空の代わりに夢を!!新しい時代の夜をリードする、オールナイトニッポン!!ゴー、ゴー、ゴー!」。糸居五郎、一世一代の第一声が、午前1時、トーキョー、ジャパンのラジオ電波の自由空間に響き渡った。画して、待ちに待った、若者の深夜の解放区は、遂に幕を開けたのである。
2020年11月09日
Posted by kirisawa
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