You need me, perhaps, or I need you chapter 6


猫に鈴をつける。Who is to bell the cat ?

猫が鼠を獲るのは、自明の理である。些(イササ)かも不自然なことでは無い。それは、猫の天性であり、定められた業である。鼠にしてみれば、天から授かった有り難くない、如何ともし難い宿命であり、避けて通れない災難と言う他ない。鼠は、一族が猫の餌食となっていくのを、見す見す、黙って見過ごしにはできぬと、寄合をもった。鼠たちは、文殊の知恵を絞り、一計を案じ、猫に、鈴を付ければ、何処に猫がいるか、判るから、逃げることができる、と思い着いた。これは名案。一同は胸を撫で下ろし、それに一決したが、誰が猫に鈴を付けるか、ということになると、手を挙げる者はいなかった。東の方の国に、窮鼠(キュウソ)反って猫を噛む、という諺(コトワザ)がある。この話、どこかで繋がっているのだろうか?

イソップAesop寓話の教訓は、「危険を顧みず、為すべきことを成せ」、ということらしいが、ここでは、「言うは易し、行なうは難し」、か、「弱い者でも追い詰められれば何をするか、判らない」、という、二つの異なる、しかし、どちらも、有りそうな訓戒になっている。洋の異なる対処の仕方に、何かしら、歴史的経験論の影を感じるが、要するに、それは、人生に真剣で積極的であるか、御座なりで、我が身に災いが及ばなければ腰を上げようとしない、という生活習慣によるものと言えるかもしれない。つまり、これは、単に、猫と鼠の事ではなく、異なる文化圏の処世哲学に見る社会規範の価値基準についての相違というべきものなのかもしれず、そして、そこには、さらに、曰く有り気なより深い心理(原理)に直結する窮理的ファクターが隠されているのかもしれない。つまり、一方は自らの意思によって成り立つ生なるプラス思考の状態、もう一方には、自らの意思を放棄した死屍たるマイナスの思考状態が、同時並行的に同居・偏在する非実在論的世界が姿を現す。これは「シュレジンガーの猫 Schrodinger’s cat」の重ね合わせの帰結と同等の意味を持つのだろうか?

何?何のことかわからない?それは当然。これは、量子力学の世界の重ね合わせという状態の現実的矛盾を指摘した一つの例えであり、一般の人には、多分、余り、聴いたことの無い、縁のない言い回しである。ここで、量子力学について、事細かにレクチャーしたりはしないが、これは解り易く言えば、密閉された箱の中に入れられた猫は死んでいるか、生きているか、と考えた時、そのどちらでも有り得る、という結論が導き出されることの矛盾を表現したものである。つまり、この生でもあり、死でもある、可能性の状態を重ね合わせと呼び、それを実際には確かめようがない、不確実で観測不能な状態こそが、量子力学の特徴であり、因果律を一部拒否する根拠となっている。

さて、もし、箱の中の猫に鈴をつけることができたら、このお話はどうなっていただろう?

実は、猫と鼠に因果関係があったのではなく、猫と鈴との間に相対的な実在と非在の相関関係があったのであり、そこにこの猫に鈴をつけるという、本質的動機と理由が潜在していたことに気づくのである。如何にも、イソップらしい話。奥行きがあり過ぎ、今日のボクたちの事実の裏側に潜む真理を読み解く力の無さを痛感させられる説話である。感服。

 ちょっと、短かったけど、内容はハイ・レベル。物理に興味のある方は、新シリーズ「Sophie ×Pistis 」をご覧になってください。以上で、「猫に鈴をつける」はおしまい。また、次回!
2020年11月01日
Posted by kirisawa
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