虚ろなる涙 その4


徒然なる不幸。(吉田秀和の手記参照)

その晩は、男の、最も親しく、かけがえのない輩(トモガラ)が、寂寞(セキバク)のしじまの彼方へ旅立っていく、やるせなく、哀しく揺蕩(タユタ)う、永訣の夜だったのだ。何者かが、凍える闇を徘徊し、沈黙の呪縛を呼び覚ます。それらは、我らを覆い、窒息させ、奈落へと突き落とす。果たして、その時は、来たのだ。

1996年2月3日の朝、吉田秀和(1913.9.23.-2012.5.22.)の家の電話が鳴って、友人の作曲家柴田南雄(1916.9.29.-1996.2.2.)が前夜遅く亡くなったことを知らせた。吉田にとって、柴田は、音楽界で心置きなく話せる唯一の人だった。二人は一緒に「子供のための音楽教室」を創り、それが桐朋短大になるまで育てた。さらに、二人は、二十世紀音楽研究所の名で軽井沢に国際現代音楽祭を始めた。その後、往き来は減ったものの、戦友の仲だった。

柴田の思い出である。彼は、まだ若く、立原道造(1914.7.30.-1939.3.29.)の詩による歌曲集「優しき歌」を書き上げて少しした頃から「ぼくは人魂(ヒトダマ)みたいな音楽を書きたいんだ。頭も尻尾(シッポ)もなく、ふわふわ浮動するような音楽が……」と言っていた。年を経て、彼が方丈記の一説をテクストにホールの中やステージの上下を歩き回りながら経文でも歌ってゆくようなカンタータを書いたことを知って、昔の夢を実現する方途を見つけたのかと思った。

その直後、吉田に姉の入院の知らせが届く。その、懐かしくも親しい姉は、それから10日余りで世を去り、その日は奇しくも、柴田の告別式と重なった。積雪の町に寒風の吹く中、葬儀は執り行われ、それでも多くの参列者が故人を見送った。過る2月19日、吉田は姉の告別式を終え、人心地ついていると、翌20日、通信社から電話で、武満徹(1930.10.8.-1996.2.20.)が死んだ、との一報が入る。絶句した。その夜、吉田は夢を見た。暗いところを一人で歩いてゆく姉の後ろ姿。さぞ淋しかろうと、思わず、声をかける。「近くに、柴田や武満も……」と言いかけて、そう、姉は二人を知ろうはずもない。ハッと気がつく。突然、目から涙が溢れ、枕を濡らしたところで目を覚ました。

吉田と武満の付き合いも長い。現代の、戦後の日本音楽界の創成期を共に歩み、牽引した仲間として、二人は特別な存在であり、彼らの功績を語ることは一朝一夕にはできない。話を1995年5月に戻す。吉田は、ブーレーズのコンサートへ行った。偶然、武満夫妻が隣に座った。すると、出し抜けに武満が「今近くの病院に入っているのだが、医者の許しをもらってきた。膀胱癌(ボウコウガン)だが、最近は手術でなく化学療法で治ると言われています。」と、例の人懐っこい微笑を浮かべながら、さばさばした口癖で一気にしゃべった。秋には、退院の挨拶が来て、「近いうちにまたお目に掛かりたいと思ってます」と書き添えてあった。

軽井沢の国際現代音楽祭の4回目に武満の「リング」が披露され、吉田は「武満徹と静謐(セイヒツ)の美学」という文章を書いて絶賛した。それは、最終的にそぎ落とされた音だけによって構成される超絶均衡音楽であり、全編、究極の張りつめた緊張が支配する音響世界であった。これを原点に、武満は稀有な音楽家への道を絶え間なく歩き続けることになった。吉田は、言う。彼の音楽には、どこからどう出発しようと、一つの音、一くさりの調べに収斂(シュウレン)されてゆく傾きがあった。いつか外国人が日本人には何事も矮小(ワイショウ)化する好みがあると指摘していたが、武満にも確かにその傾向はある。しかし、彼の場合は、尺八の一ふし、琵琶の一撥(バチ)にせよ、その周囲に広がる大自然の存在を同時に感じさせずにはおかない。

 吉田は思い出した。1960年代初め、バーンスタイン(Leonard Bernstein 1918.8.25.-1990.10.14.)がニューヨーク・フィルハーモニーと同行して初来日した時、黛敏郎(1929.2.20.-1997.4.10)が一夕席を設け、武満と彼の曲を紹介したことがある。そこに、吉田も、ニューヨークフィルの次席指揮者も同席していたのであるが、その人が武満のスコアを一目見るなり、「こんな大編成では、金がかかり過ぎ、どんなオーケストラでもしり込みしてしまう。まだ知名度の低い君は、もっと手ごろな曲を書いた方がいい。」と訓戒した。武満はただ黙って頷(ウナズ)いたが、それは了解した、と言う意味ではなかった。彼はスコアを丸め、俯(ウツム)き、吉田に視線を送った。吉田は、武満の言わんとするところを瞬時に理解した。実際、何十段かの五線の引かれたそのスコアは巨大と言っても良かった。しかし、それは音符がぎっしり書き込まれた楽譜ではなく、空白が至る所にあり、その間に細かなきれいな筆遣いで音符の集団が置かれているようなものだった。その空白が呼吸する。それを読み解くことは、その人には無理だったのである。

 ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882.6.17.-1971.4.6.)が武満の「弦楽のためのレクイエム」の譜面を見て、「あんな小さな男がこんな厳しい音楽を書く!」と驚嘆したという話はあまりにも有名になり過ぎたが、それが真実であることに今でも変わりはない。無論、それに異論はない。

 吉田が、何年か前、八ヶ岳高原音楽祭で武満と並んで彼の近作弦楽合奏のための「ノスタルジア」を聴いた時も、武満は「書き出す時は今度こそ違うものをと思うのだが、出来てみると、やっぱり同じようになる」と照れたような笑い顔で吉田に言った。しかし、吉田は、一言も非難めいたことは言わず、「是も寡黙(カモク)静寂の厳しい曲だ」と、評したのみだった。その武満の作品に際立った変化が現れたのは、それから又、何年か後で、吉田は、その管弦楽曲「精霊の庭」の甘美豊麗な響きに心揺さぶられ、動揺した。「十二音かどうか、とにかく音列作法の曲らしいが、それでこんなに豊かな色と甘い香りのする音楽を聴くのはベルク以来かしら」と、吉田は武満に書き送った。

盟友を逝(イ)かせて数日、執筆の筆を止めた吉田だったが、差し当たって、「人の生は本当に駆け足で過ぎ去る儚(ハカナ)いものであり、やがて、彼らの芸術が人柄からではなく、真の音楽としての価値から計られる日が来るだろう」と書いた。その真意は、歴史の絶対評価に俟(マ)つ、ということであり、それは、バッハ、あるいは、ドビュッシーといった巨星の名に比肩する存在として名を残すか、ということに他ならない。それは、吉田が、この時、失った二人への手向けとして思った言葉だったが、そこには、吉田らしからぬ気負いもあったように思う。吉田は、それから16年生き、98歳の長寿を全うした。彼は音楽評論家、ということになっているが、実は、音楽振興家とでも呼ぶべきクラシック音楽界の総合プロデューサーであり、その基本レールを敷いた大物中の大物であった。彼の死こそ、事件であった。
2020年08月26日
Posted by kirisawa
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