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死は、もはや、屍(シ)であって、死ではなく、それを敢えて、詞とするのは、生の陋習(老醜)というものである。
鈴木清順(1923.5.24.-2017.2.13.)は、日本の文化は侘び・寂びではない、絢爛豪華だ、と言い放つ。鬱陶(ウットウ)しいものを嫌い、開放的で、人間性の自由を謳(ウタ)う、この老獪(ロウカイ)な映像作家の少年時代は、不幸にして、不自由で息の詰まる窒息の時代であった。醍醐(ダイゴ)の花見こそ、その原点だ、と語る老人は、侘び・寂びという、その後ろ向きの出鱈目(デタラメ)さ加減と、嘘臭い神妙さで仮装した、得体の知れない日本文化の正体に、疑念と軽蔑の眼差しを向けて見せたものだ。それを反骨、というべきか、どうか、は、判らないが、多分、違う。そこには、冷徹で厳しい日本批判の精神があり、しかも、怜悧な思惑が潜んでいるような感じを持つ。つまり、そこに、真に、日本文化の本当の担い手がいるのだ。その眼が、こちらを見据え、立っていた。
智は、知をもって、治となす。
日本文化には、微笑ましい、茶目っ気と、高度に陰鬱な怨嗟(エンサ)の感情がある。これを生んだのは、明らかに、戦国の世と江戸の爛熟(ランジュク)である。そして、退廃と驕慢の刹那(セツナ)に花開いた、雅(ミヤビ)にして華麗なる平安の都文化も、それを語る上で、避けて通ることは出来ない。ただ、うら悲しい、侘び・寂びの室町の文脈だけでは、千変万化の文化史を俯瞰(フカン)することなどできるはずもないだろう。おおらかで、喜びに満ちた民衆の、歓声の中にこそ、古来からの、日本の、あからさまな、包み隠さぬ民族の文化の発露が、あったのではないか。
現代はクオリティーの時代だ、という。言うなれば、量産文化の時代は去り、イッピン主義の時代になった、と。そういうことか。溜息。粋な計らい。でも、何か、違う。何か、おかしい?オリジナリティーというものは、独創性、とは違う。追求しているものは何だっけ?美?形?個性?独自性?民族性?それらは、皆、違う。否、そうかもしれないが、自分が追い求めているものは、真理、否、真実、真なのかもしれない。それは、生の全肯定を意味する。“生”こそ、全てなのだ。生きること、生き抜くことこそが、人生の目的であり、作品を作るということ、それ自体が自分にとっての生であり、真であり、真実であり、真理であり、生きることなのである。従って、生きる息吹を表現することこそが、オリジナリティーであり、クオリティーを高めるモチベーションとなるのだ。
老人は、映像でしか、もう、語ることは無い。色彩と構図だけが、語りかけ、言葉の全ては意味をなさない。沈黙の対話は続き、静寂のサウンド・オブ・ミュージックがバック・グラウンドに流れていく。映像は物語る。終わりは何時も、永遠の帰結である、と。