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ヒトの社会は仮面の社会であり,仮想と現実が混在する社会である。ヒトは、“化(カ)”する。つまり,化けるのである。それは,自分以外の何者か,に化け,自ら仮想した人格に変容し,自分自身を隠蔽し,一人の傀儡(クグツ)師となって,仮面を付けた自分に掏(ス)り返て,自ら虚像になり切る。何故そんなことをするか,と言えば,それは飽くまで自分が第三者として存在し,社会的事象の当事者であることを否認し,責任を回避するためである。
自分が何者であるか,ということに関係なく,仮面の人格になり切ることで,全ては虚構である現象的責任から免れようとする。
人類の歴史には,古くから仮面劇という架空の芝居が存在し,それは石器時代まで遡る。その起源は人間の狩猟採集の中から生まれたものと言える。鳥寄せと言う,狩りの手法では,鳥の鳴き真似が得意な一人が,獲物となる鳥の鳴き真似をすることによって獲物を誘(オビ)き寄せ,罠にかけるといったことが行われており,仮面劇の一つのルーツだと推測できるし,仮装して狩りの様子などの再現も行われていたことだろう。こうした架空の物語を脚色して演ずることにより,現実の狩りの試行実験も行われていたことも想像できる。さらに獲物と同じ毛皮を着ることによってその群れに近づき,狩りを行ってもいたのだろう。仮面のルーツはそれだけではなかっただろうが,自分自身がその獲物になり切ることによって,演技という新たな手段を獲得することで一段と劇的の要素に拡張することになったのではないだろうか。これによって,擬態という本物により近い演技を習得することになり,仮面劇の世界は一つの物語,顛末が意味を持つようになった,と思われる。
今,普段のボクたちの社会を垣間見る時,これらの顛末は報酬系という機構によって裏打ちされた予測劇や進行形の物語の一部といった方がいいのかもしれない。それらの錯覚をどこまで信じればいいかは本人すらも確信は持てないのではないか?そう感じるのも,ボクたちホモサピエンスの日常の生業(ナリワイ)が既にそういうものだからではないか?ボクたちは,自分が何者であるか,今ではよく分からない状況にあると言っても過言でない。ボクたちは,一個の人格を備えた独立した存在である,と誤解して,実は一人の仮面を被った道化に過ぎないという方が正しいのかもしれない。美意識の発露である化粧こそ,その顛末に相応しい仮面の最たるものであり,印象という要素を劇的に反映している,と言えば,簡単に過ぎるが,どんなポーズを取ろうとも,どんな発言をしようとも,それは仮面のそれに終始する。
ヒトはそれぞれ仮面を付け,真の姿を現すことははほとんどない。実際,どれが本当の自分なのかもしれず,仮面のまま,出会い,仮面のまま,過ごす毎日である。そして,いつかは別れ行く。お互いを知る事も無く,知られることも無く。それでいいのかもしれない。素の自分を露わにすることなどないのかもしれず,理解する必要も無く,ただ共に生きていくだけで良いのかもしれない。それは悲しいことでもあるが。
他者理解とは,なんと難しいことであるか。何もかも捨て去って,他者を受け入れようと,思案しても,対価を求めることは出来ない。彼を受け入れようとしても,有形の何かをを手に入れられるわけでもなく,その思考の一部を聞くことだけで多分それ以上のものは得られない。ただ聞き役として,その言葉に耳を傾け,ただ少しの時間の慰めを共に過ごすことだけである。そこには,深い,深い悲しみがあることも,妙なる歓びもある。その時,他者は自らの仮面を取っているのかもしれない。しかし,それが彼の全てではない。
彼は群れ社会との軋轢に振り回され,疲れているだけかもしれない。善人の仮面を被る者,悪人の仮面を被る者,深く傷ついた者,ただ漫然と流されていく者,止めどない涙の渦中に在る者,それらの人々の仮面の下にある素顔と対峙する時ほど,労りの言葉は必要である。しかし,自らを振り向く時,自らの仮面を取って接するには,無力であることを痛感せざるを得ない。情けない自分に幻滅する。ホモサピエンスの世界が,群れ社会という足かせから自らを解放する日が来るだろうか?