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「これからの地球は、人口過剰が最も大きな問題となる。放っておけば、人間が犠牲を強いられる辛い、悲劇的な時代が来ます。戦争を起こさず、世界規模の人口過剰を回避する、これが科学技術の重要な目的だと思います。」手塚治虫(1928.11.3.-1989.2.9.)先生は、まだ、科学技術のありようをはき違えていらっしゃったんだ。「ですから、長期的に見て、子供を人工的に作ることには、懐疑的なんです。人間の生死は神様の自然にゆだねるべきだと思います。」そうすると、不妊治療は、どういうことに?「体外受精は究極的に、生態系の均衡を確実に崩壊させます。資源が限られた地球で、人間が生存していくためには、これ以上の人口増は危険です。体外受精を希望する人には、それが、どのくらいの意味を持つもつものか、考えてほしい。」、ということは、反対すると?「そうです。僕は、試験管ベビーが可能になった段階で、人類は大きく変わったと思うんです。男女の愛情と意思で子供が作られることに変わりはないとしても、体外受精には、カネが密接に絡んでいる点は見逃せません。自分の命と子供が、オカネで思い通りになる社会、そうした風潮が怖いんです。子供が自分がオカネで作られた存在であることを知った時、不幸にならないか、心配です。」
1987年6月、氏は、ある新聞紙上のインタヴューで、体外受精と不妊治療について以上のようにコメントした。この論理には、混同と飛躍があり、彼は二つの点で大きく誤っている。先ず、体外受精と人口増加の相関関係はそれだけでは増大するとだけ言い切れないのは、他の不確定要素の存在を推して考えれば明らかである。次に、体外受精によって生まれた子供が、自分が金銭的事由によって存在している、というようなハンディを負うかもしれないという、一種の妄念について言えば、それは、産婆さんの手で出産したのではなく、産科病院で出産した場合、難産でも無事出産となるのと同じで、オカネが懸かっても結果が良ければよいのである。氏の時代の人でも、自分は病院で生まれたから、オカネによって生まれたのだ、と言う人などいなかった。勿論、現在、自分が体外受精だったかどうかなど、考える以前の事である。では、何故、先生はこんな話をしたのか?
「僕の漫画に「ブラックジャック」があります。主人公は腕のいい医者で、命を助ける代償に、法外なカネを要求します。生命(イノチ)とカネという厳然たる事実を、やや露骨に描いたものです。そして、ブラックジャックは、患者を助けることがその人の人生にどれだけ意味があるか、ものすごく悩む訳です。つまり、医者がカネもうけに走る恐れを指摘し、医学の暴走に警鐘を発したつもりです。」でも、お医者さんが悩んだって、患者は治ります?「体外受精は、50年、100年といった長い目で見れば、問題がある訳ですが、現状の医療を全面否定する訳にもいかないと思います。その際、「子供が欲しい」と願う不妊夫婦を規制するというのは常識的に無理だと思う。だからこそ、医者の責任を厳しく問うべきなのです。金儲け医療は、厳に戒めるべきです。」尤もな、お話でした。この後も、お話は続くのですが、ここまでで良しとするのが、粋(?)ってもんかもしれません。(何故なら、この後、氏は、鉄腕アトムは核融合エネルギーだから大気汚染はしないとか、哲学的命題を具申しない調査機関を持たない病院には先端医療を認めないとか、真面目に脱線して行ってしまいました。)
医と倫理、という問題の根源にあるものは、手塚氏が生涯持ち続けた”命”と言うテーマと直結する問題で、その掛け替えの無さ、唯一無二、代替できない、“命”のエッセンスである、手塚氏に言わせれば、アニマ、そのものであると言える。その生命に宿る、霊魂も、生命の死滅と共に、この世界から消失し、還るべき世界へと回帰する、と手塚世界では考えられ、その幽体とも言うべきものが、アニマ、と呼ばれるものであった。その有機的世界にあって、永遠の愛の化身、火の鳥に表象された手塚氏の思惟網の全体を含中した作品群は、如何にも、生の生たるもの、死の死たるもの、と、生くべきものと死すべきものとの、運命の縁(ヨスガ)に彷徨(サマヨ)う夥(オビタダ)しいアニマの飛翔するプラットフォームであり、変曲する心理と響き合う心理が織りなす悲喜交々(コモゴモ)の感情が鏤(チリバ)められた心情活劇が展開される“命”の宇宙なのである。
つまり、手塚氏にとって、命というものは、静的なものであるだけでなく、動的、ダイナミックなものでもあって、それは、躍動する、イメージを持つものなのである。そこへ以ってきて、オカネ、というのは、死、とは、言わないまでも、少なくとも、物体である。手塚氏のイメージとは相容れない。そもそも、治療の対価をオカネで取るようになったこと自体問題だった。その対価とは、お礼だったはずだ。だから、何でもよかったのだ。それが、オカネを払って治療してもらう、という本末転倒でもないが、相対取引きみたいな関係になってしまって、だから、よくよく、考えてみると不思議な関係である。生命を金銭で置き換える、という図から、手塚氏は、邪(ヨコシマ)な下心を察知し、下賤で野卑な習俗も改まらないことに嘆息した。手塚氏の思う、医とは、救命の、医、だけではなく、命を養う、養生の、医、でもあり、かつ、自然の生命と共に歩む、共存の、医、でもあったのである。
手塚治虫氏は、たじろぐことなく、一般化し、日常化して、罷(マカ)り通っていた因習にも立ち向かった。彼は、良くないことは、良くない、と発言できる、立派な大人だった。彼は、常識人としての見識を持ち、正論を述べ、人を魅き付けるに十分な弁舌だったが、人知れず、失言した。赦されるところである。