イノセントラヴァーズ 2章 innocent lovers chapter 2


1970年2月17日、妹グレース・パトリシアは3年余の入院治療の甲斐も無く、昏睡のまま息を引き取った。10歳だった。既に、余命が尽きようとしていることは分かっていたものの、ペトラたち家族にとって、その喪失は大きな悲しみであり、耐え難い苦痛であった。

ペトラは、最愛の妹の、呆気ない死に、自分の無力感を感じた。しかし、それは、乗り越えていくべき試練だった。ペトラは大学に戻り、5月31日、政治学課程を終了し、文学士(バチェラ・オブ・アーツ)優等の学位を得た。そして、その将来を嘱望(ショクボウ)されていたアメリカ合衆国を離れ、オランダのアムステルダムへ向かった。彼女は、1年後、同地の大学の欧州研究所で修士号を取り、ECの研究奨学金の受給資格を得て、本格的に欧州統合に関する政策研究という具体的、かつ専門的なテーマにコミットする立場になり、ブリュッセルにあるEC本部に勤務する運びとなった。

そして、1971年から1980年にかけて、ペトラは、官僚として、直接的な行政経験を積む傍(カタワ)ら、出身地西ドイツの様々な市民運動・地域社会運動などにも積極的に関与し、知名度を上げると共に、より具体的な、現実的な課題の解決手段を編み出して、一段と評価を挙げ、実践的で分かり易い対応を心掛けることで信頼を得ていった。但し、堅物で柔軟性に欠ける、と言う評定はそのままであり、頑固一徹は変わりなかった。一方、政治的立場は、一貫して左派であって、この時期もSPDに所属していた。しかし、組織管理による集団誘導といった点では、当時の政治団体・政党は同じ仕組み、同じ性格の範疇(ハンチュウ)に入り、選択の余地は無く、ペトラが目指す草の根型の直接的な有機的コミュニケーションを基盤にするネットワークなど、当時は実現不可能だったから、既成政党の仕来(シキタ)りに甘んじるしかなかった、と言える。

この間、1976年と1981年に、ペトラは、日本原水禁の招待で広島の原水禁世界大会に2度参加し、被爆者とも懇談して、被爆国日本の核問題に対する実際の対応、姿勢が、彼女の抱いていたものと乖離していることに驚き、大きく失望したが、ただ黙々と日常に付いていくだけの日本人の生き方を敢えて、否定も肯定もしなかった。ただ、ペトラは、将来、原発の廃炉を含む老朽化などで、莫大なコストが国民に覆い被さるだろうと警告した。又、不測の事態でも。

1980年1月12,13日、カールスルーエで開かれた集会で、緑の党(緑の人々)は政党となった。ペトラは3人の党代表の1人の共同代表となり、その後、ほぼ10年に亘って、活躍し、この間、連邦議会議員としても議場に立ち、反核運動でも目覚ましい前進に貢献し、環境保護にも成果をもたらし、積極的な女性政治家として活動したが、1990年、引退、1992年10月1日、射殺体で発見された。44歳。
2020年08月14日
Posted by kirisawa
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