マートレーヤ 4章 自由、或いは命 liberty, or life  強いるもの、強いられるもの man for forcing , man for forced


恐るべきことに、妊娠中絶に関する議論が、依然として、前近代的レベルで、現在も行われている。アルゼンティンの新しい大統領は、2020年3月1日、人工妊娠中絶の合法化の法的手続きを進めることを表明したが、これまで、同国では、強制生殖による妊娠と母体の健康に著しい危険がある場合を除き、中絶手術は認められていなかった、という。これは、個人が自分の体の関する権利を事実上、強制的に放棄させられていたことを意味する。

命の問題は、過去においては、宗教的拘束力と習俗的慣習により、集団の経済的利益が優先され、愛・自由・平和の三原則は疎外され、各人の独立は認められていなかった。即ち、生産増殖の拡大にこそ、目標が当てられ、而(シカ)も、その支配層は少数の富裕階級であって、彼らの地位を保護するためにだけ、それらの機構は、その他、大多数を犠牲にして、存続していたのである。要するに、社会が、強権的な王政から、近代的な民主社会へ変質した現代においてさえ、依然として、ピラミッド的階層の頂点に立った者たちだけのために、繁殖生産システムの温存が図られ、その利益を独占・偏在する流れは変わっておらず、誰もが直面する、“性”の問題、つまり、命の問題については、都合のいいように、蹂躙(ジュウリン)され、本末転倒の人口問題に掏り変わり、命の尊さ、という、最も重要な、避けては通れない、人生の問いについては、お茶を濁して憚(ハバカ)らないのである。そこには、“愛”は無い。ただ、道徳律に隠された、“掟”と打算と下心があるだけである。

こうした国家集団システムと倫理との整合という問題は、過去のものとなったとは、到底言えない。その、主な主戦場は、ユナイテッド・ステート、合衆国に他ならない。合衆国では、人工妊娠中絶は合衆国憲法で保障された基本的人権である。1973年、命の問題は、初めて、女性の権利として認められた。即ち、妊娠中絶は、女性の個人の選択により行使できる権利として、合法であることを合衆国は憲法で保障し、これを不当に規制する州法を違憲とし、無効とする、との判決が下された。しかし、宗教集団による、信者囲い込みの動きが顕著になった2013年、ノースダコタ州議会は、中絶の権利を制限するハートビート法を可決、女性から命の権利を奪い返そうとする勢力の先導役を買って出た。ハートビート法とは、妊娠診断後、胎児の心音が確認された時点で、それ以後の中絶を禁じるものであり、具体的には、凡そ6―8週後に相当する。2019年までに、ジョージア、ケンタッキー、ルイジアナ、ミズーリ、ミシシッピ、オハイオの6州で同じハートビート法が、他10州でも中絶制限法が、アラバマ州に至っては全面禁止法が可決された。係る動きを、どう理解するか、ということであるが、これは、すべからく、もし、自身が当事者であれば、己の属す集団のイデオローグとそれに隠蔽されている収益構造から推し量るのが、簡便であろう。それが、全てを物語っている。

ブラック・ライヴズ・マターも重要だが、ウーマン・ライヴズ・マターも忘れてはならない。合衆国では、女性が、一人で、まともに、診療を受けられない地方が少なくない。例のアラバマ州であるが、そもそも、ここのメディケイド(低所得者公的医療保険制度)には、中絶手術の適用項目は無い。従って、貧しい女性は、望まない妊娠をしても中絶できず、仮に、手術の費用を工面したとしても、他の州の医療施設まで行かなくてはならない。この医療制度が行き届いた信心深い州の郡には、2017年時点、中絶手術ができるクリニックは全体の7%しかない。2020年3月、テキサス州は、コロナ・ヴィールス感染拡大の最中、「不可欠な医療サービスでない妊娠中絶手術」を中止することを表明し、専門医の団体から非難された。自由の国では、今も、黒人も、女性も、公正にon justice扱われているとは、思えない。子供も。
2020年07月24日
Posted by kirisawa
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