synthesizerでclassicをplayした例は、それまでもあり、試みとして目新しくもなかったが、1968年のウォルター・カーロス(Walter Carlos 1939.11.14.;1972. sex change. Wendy Carlos)の「スイッチト・オン・バッハ(Switched On Bach)」はサウンドsound面でも、セールスsales面でも、評価が高く、synthesizerのrecordとしては、初めて、大成功を収めた事例となった。これが功を奏したのか、この直後から、モーグのsynthesizerには、急に、引き合いが多くなり、楽器としてのsynthesizerは一夜にして市民権を得ることになったのである。エマーソンにしても、冨田勲(1932.4.22.-2016.5.5.)にしても、加藤和彦(1947.3.21.-2009.10.16.)にしても、皆、この「スイッチト・オン・バッハ」を聴き、モーグのsynthesizerの音の豊かさを知り、購入を考えるようになったのだから、その功績は大きい。
エマーソンは、買ったばかりの未知なる電子機械楽器を使い熟(コナ)すべく、直ちに、オーケストラorchestraとの共演に臨んだ。そして、その体験から、synthesizerとbassの重低音、高音ヴォーカルvocalとのコンビネーション・アンサンブルcombination ensembleという編成で、通奏低音を基礎にしたclassicの基本的な調性・対位法の音楽をrockの変奏組曲へ展開することを思いつき、1970年、エマーソン、レイク・アンド・パーマー(Emerson, Lake and Palmer)を結成すると直ぐに、温めていたそのアイデアideaを、vocalのグレッグ・レイク(Greg Lake 1947.11.10.-2016.12.7.)に明かし、議論を重ね、あの「展覧会の絵」を始めとする、様々な作品群を作り上げていったのである。
グレッグ・レイク(Greg Stuart Lake 1947.11.10.-2016.12.7.)はドーセットDorset州プールPooleの出身。優れたvocalist, guitaristとして、teenagerから評判の才能の持ち主で、多くのlocal bandに参加、1967年、ザ・シェイムThe Shameに臨時に参加して、major debut。作詞・作曲にも才能を発揮し、1969年に、キング・クリムゾンKing Crimsonのvocal, bassに落ち着いた。その後、guitarも担当。エマーソン、レイク・アンド・パーマー以後は、世界的に知名度を上げ、playerとしてだけでなく、technical artistとしての評価も上がった。
カール・パーマー(Carl Palmer 1950.3.20.)はバーミンガムBirminghamのハンズワースHandsworthに生まれ、12歳からdrumsを始め、13歳の時には、同じjunior high schoolのスティーヴ・ウィンウッド(Stephen Winwood 1948.5.12.)とbandを組み、その後は、半独学状態で、ダンスバンドdance bandやブルースロック・バンドblues rock bandに参加、1967年、サンダーバーズThe Thunderbirds、1968年、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンCrazy World Of Arthur Brownを経て、1969年、アトミック・ルースターズAtomic Roostersを結成した。この時、すでに、歴戦の勇者になっていたパーマーは、弱冠20歳の新鋭drummerではあったが、drums, percussionの世界では右に出る者はいない傑物に成長していた。
synthesizerでclassicをplayした例は、それまでもあり、試みとして目新しくもなかったが、1968年のウォルター・カーロス(Walter Carlos 1939.11.14.;1972. sex change. Wendy Carlos)の「スイッチト・オン・バッハ(Switched On Bach)」はサウンドsound面でも、セールスsales面でも、評価が高く、synthesizerのrecordとしては、初めて、大成功を収めた事例となった。これが功を奏したのか、この直後から、モーグのsynthesizerには、急に、引き合いが多くなり、楽器としてのsynthesizerは一夜にして市民権を得ることになったのである。エマーソンにしても、冨田勲(1932.4.22.-2016.5.5.)にしても、加藤和彦(1947.3.21.-2009.10.16.)にしても、皆、この「スイッチト・オン・バッハ」を聴き、モーグのsynthesizerの音の豊かさを知り、購入を考えるようになったのだから、その功績は大きい。
エマーソンは、買ったばかりの未知なる電子機械楽器を使い熟(コナ)すべく、直ちに、オーケストラorchestraとの共演に臨んだ。そして、その体験から、synthesizerとbassの重低音、高音ヴォーカルvocalとのコンビネーション・アンサンブルcombination ensembleという編成で、通奏低音を基礎にしたclassicの基本的な調性・対位法の音楽をrockの変奏組曲へ展開することを思いつき、1970年、エマーソン、レイク・アンド・パーマー(Emerson, Lake and Palmer)を結成すると直ぐに、温めていたそのアイデアideaを、vocalのグレッグ・レイク(Greg Lake 1947.11.10.-2016.12.7.)に明かし、議論を重ね、あの「展覧会の絵」を始めとする、様々な作品群を作り上げていったのである。
因(チナ)みに、本邦では、1971年がsynthesizer元年である。記録の上では、ジャズ・ミュージシャンjazz musicianの佐藤允彦(1941.10.6.)がミニモーグmini-moogを使った作品をリリースreleaseしたのが最初であり、次いで、10月、加藤和彦が、アルバムalbum「スーパー・ガス(Super Gas)」の一部に、やはり、mini-moogを効果的に使ったarrangeを行っている。冨田勲は、さすが、コンポーザーcomposerだけに、moduleとcontrollerのコンポーネントcomponentまで注文し、最初の音作りから自力で取り組むなど、並々ならぬ力の入れ様で、作品は、1974年になったが、ドビュッシー(Claude Achille Debussy 1892.8.22.-1918.3.25.)の「月の光」を完璧にarrangeした傑作を世に送った。
キース・エマーソン(Keith Noel Emerson 1944.11.2.-2016.3.10.)はヨークシャーYorkshire州トッドモーデンTodmordenの生まれであるが、2歳で、ウェスト・サセックスWest Sussex州ワージングWorthingに転居した。pianoは8歳から始め、15歳の時に、参加したフェスのバッハBach部門で2位になったのが、ステージ・デビューstage debutである、という。その後、jazzに傾倒し、soulfulな音楽を追求したこともあったが、結局、rock sceneへ回帰し、1967年、The Niceの事実上のleaderとして活動することになる。synthesizerとの出会いはこの後である。
グレッグ・レイク(Greg Stuart Lake 1947.11.10.-2016.12.7.)はドーセットDorset州プールPooleの出身。優れたvocalist, guitaristとして、teenagerから評判の才能の持ち主で、多くのlocal bandに参加、1967年、ザ・シェイムThe Shameに臨時に参加して、major debut。作詞・作曲にも才能を発揮し、1969年に、キング・クリムゾンKing Crimsonのvocal, bassに落ち着いた。その後、guitarも担当。エマーソン、レイク・アンド・パーマー以後は、世界的に知名度を上げ、playerとしてだけでなく、technical artistとしての評価も上がった。
カール・パーマー(Carl Palmer 1950.3.20.)はバーミンガムBirminghamのハンズワースHandsworthに生まれ、12歳からdrumsを始め、13歳の時には、同じjunior high schoolのスティーヴ・ウィンウッド(Stephen Winwood 1948.5.12.)とbandを組み、その後は、半独学状態で、ダンスバンドdance bandやブルースロック・バンドblues rock bandに参加、1967年、サンダーバーズThe Thunderbirds、1968年、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンCrazy World Of Arthur Brownを経て、1969年、アトミック・ルースターズAtomic Roostersを結成した。この時、すでに、歴戦の勇者になっていたパーマーは、弱冠20歳の新鋭drummerではあったが、drums, percussionの世界では右に出る者はいない傑物に成長していた。
3人はそれぞれの道を経て、一つのgroupに結集した。エマーソン、レイク・アンド・パーマーは、ピンク・フロイドPink Floydと並ぶ、プログレッシヴ・ロックprogressive rockを代表するbandであり、そのmemberは、キャリアcarrierで、しかも、音楽理論の分かる、実力者揃いだった。blues系のクリームThe Creamとは、一味違う、毛色の違うtrioであった。レパートリーrepertoryは、originalとclassic、又はjazz系統をarrangeした組曲で、ほぼ全てをエマーソンとレイクが創作した。主旋律は、主に、エマーソンのsynthesizerやpianoによる場合が多く、間に、レイクのguitarのcadenza(独奏)とvocalが意味深に入り、最終楽章で大きな意味を結論するのが、全体の流れだった。つまり、一つの顛末物である。そのstoryでは、パーマーのdrumsは非常に劇的であり、音楽そのものを盛り上げるのに有効であった。そして、レイクの高音のvocalが電子音の隙間を通過する時、無機質で、無味乾燥と思える音楽は、有機的な、希望にあふれる音楽足り得る音楽に静かに、しかし、瞬間的に変化し、秘められた力である、人間の、人間に内在するユマニティhumanite(人間性)が世界を変え得る力であることを、改めて顕示するのであった。
彼らにとって、肉声を入れることは音楽製作上の重要な要素であった。音楽のhumanな有り様をいつも意識していたい、というのが、彼らの思いであった。彼らは、electronicsの世界の申し子ながらも、人間の、人間としての心を忘れるようなことは無かった。彼らにとって、音楽は音学なのであった。
彼らの代表作は、「展覧会の絵」と「タルカスTarkus」である。前者は、音楽史上初めて、synthesizerをlive concertに本格投入した作品で、ロシアRussiaの巨人ムソルグスキー(Modest・P・Mussorgsky 1839.3.21.-1881.3.28.)の組曲のarrangeであり、発表当時、センセーションsensationを巻き起こし、音楽界の話題を攫(サラ)った。その名演奏は今も伝説となっている(1970年のライブliveは、今もネットnetで視聴できる)。後者はエマーソンが原案を書いたoriginalで、畳み掛ける5拍子の繰り返しが印象的。最後のvocal部分は、レイク独特のnaïveな歌詞で締め括(クク)られる。
2016年、周知の通り、エマーソンは左手の麻痺を苦に、自ら命を絶った。レイクも、闘病の末、死去。舞台には、一人、パーマーが残った。しかし、時代は去った。幕は、やがて、下りる。何もかもが、終わった。