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マルクスが、利発な機転の利く少年であったことは、明らかであるが、一面、狡(ズル)さの目につく悪戯(イタズラ)っ子であったことも証言されている。この性格は矛盾するものではない。彼は、長じてからも、頭の良い、臨機応変の性格だった。ただ、優越感に浸るのを好む一方、劣等感に悩むことも多く、内面での葛藤を隠す傾向が強かった。ヒューマンな考えを持ちながら、シニシズムに負け、人を愚弄することもあった。係る性癖を隠すため、巧妙な理論武装を試みたこともあったが、晩年は、自分の愚かさを自覚し、他者に寛容に接するようになっていた。マルクスの人生を語ることは、革命家の人生を語ることでは無く、一人の凡庸な優等生の歩んだ、鏡の国の物語を語ることなのかもしれない。
マルクスは、故郷の高校を卒業すると、父に奨められるまま、1835年、ボン大学に入学し、法律家を目指し、何の疑いもなく、法学の勉学に打ち込むことになった。しかし、そこには、既に、ヘーゲルの影が忍び寄っていた。マルクスの授業を担当する神学講師ブルーノ・バウアー(Bruno Bauer 1809.9.6.-1882.4.13.)は、ヘーゲル主義の権化であり、信奉者であった。マルクスは、バウアーに感化され、無神論に共鳴し、迷妄な教条主義を批判するようになっていった。翌1836年、マルクスは、さらに、研鑽(ケンサン)を積むため、として、ベルリン大学へ編入学したが、そこはヘーゲル主義運動の牙城であり、彼の真の目的が何処にあったか、は、直ぐに明らかになった。ベルリンは、青年ヘーゲル派の拠点であり、世界へ勇躍飛翔する出発の地なのだ、という、一種の妄念が、彼の脳の片隅に、芽生えたことは確かである。
1838年5月、父ハインリヒが病死し、実家からの学費の仕送りはままならなくなった。残された家族は、マルクスの卒業と帰郷を待ちわびていたが、彼はその思いには応えず、期待を裏切り、ただ、自分の心の赴くままに、ベルリンでの学生生活を楽しんだ。1841年4月、エピクロス哲学に関する学位論文をもって、学位を取得すると、7月、ボン大学への就職を斡旋してもらうため、ブルーノ・バウアーを頼って、久々にボンに赴いたが、その肝心のバウアーは、過激な言動で、解任寸前であり、そればかりか、著作の中で、王権や教会の権威を棄損し、暴動を扇動した、として、窮地に立たされていた。マルクスの目論見は外れ、独りよがりの安っぽい夢は、水泡に帰した。
フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels 1820.11.28.-1895.8.5.)は、プロイセン王国のバルメンで紡績工場を経営する敬虔主義プロテスタントの両親の下に生まれ、子供のころから禁欲・勤勉・実直のキリスト教精神の遵守を徹底されたため、長じてから後(ノチ)、それに少なからぬ反発を覚えるようになった。エンゲルスの一家は商家で、十分富裕な家庭だったので、父親は、商売以外の知識は子供たちに必要ないと考えていたらしく、エンゲルスも商業学校からエルバーフェルトのギムナジウムに編入したものの、1837年には中退させられ、17歳で家業の見習いをすることになってしまった。しかし、それは、振り返って考えてみた時、彼の人生にとって、決して無駄ではなかった。エンゲルスは、紡績業のあらましとノウハウを教え込まれ、1838年には、父親と商業都市マンチェスターに出張し、実際の商売を体験し、又、物流の拠点ブレーメンのロイボルド商会に見習い事務員として働き、実務の詳細を身に着けた。
1841年3月、エンゲルスは2年半のブレーメンでの修行生活を終え、バルメンに戻ったが、20歳の血気盛んな青年にとって、その実家の生活は退屈極まりないものであった。そこへ、兵役の招集が来る。止む無く、兵役義務を果たすべくベルリンへ赴くと、砲兵に配属され、砲術の訓練や砲弾の弾道計算に明け暮れる毎日。自分の好きな勉強がしたいと、軍務を抜け出しては、ベルリン大学で聴講し、ヘーゲル哲学に引き込まれ、やがて、ブルーノ・バウアー、エドガー・バウアー兄弟をはじめとする青年ヘーゲル派の無神論者・共和主義者の団体、自由派(フライエン)の仲間に加わって、急進的な政治運動に身を投じた。彼は、先ず、因循なキリスト教の偏見から自らを解き放った。そして、自由主義・国民主義運動を超え、構造的な社会変革の必要に目覚めた。
1842年1月、ポーランド系ユダヤの出身である社会主義者、モーゼス・ヘス(Moses Hess 1812.6.21.-1875.4.6.)は、新たな運動の担い手たちに自由な発言の場を与え、交流の機会を確保し、意見の集約を容易にすることで、互いに協力して難局を乗り切る力を養ってもらいたい、と願い、実質的な運営者となって、ドイツでは画期的な新聞、「ライン新聞」を創刊した。就職に失敗し、行く当てがなくなって困窮していたマルクスの窮状を救ったのも、この「ライン新聞」だった。結局、マルクスの伝手(ツテ)は、バウアーでしかなく、マルクスは、5月にベルリンからボンに移った(間もなく、ケルンへ転居)。その後、バウアーは「ライン新聞」からも抜け、残されたマルクスは、前も後ろも分からぬまま、時々、記事を寄稿しては、検閲に合い、思うようなものを書く機会は一向に訪れなかった。そう、こう、しているうちに、10月、検閲側の圧力で編集長が解任されてしまう。
そして、どういう訳か、後任の編集長はマルクスと決まった。否、訳はある。この頃、マルクスは急進社会主義とは、関わっていない。社会主義とさえ、多分、距離を置いていた。バウアー事件を見ていたから。彼は、用心深く、自己保身に専心し、得たものを失うことを恐れた。人間である。確かに。従って、新聞の紙面も一変した。マルクスは書いた。「持たざるものと中産階級の衝突は、平和的に解決し得る。」ヘスは何も語らなかった。
1842年11月、エンゲルスは、兵役を終えると、ベルリンからケルンへ向かった。それは、「ライン新聞」の編集長マルクスに面会するためだった。彼が、何故、マルクスを知ったか、と言えば、それは、モーゼス・ヘスのマルクスへの賛辞が耳に入ったからであった。ヘスが、マルクスを持ち上げる理由は、まだ若く、多少、風呂敷であっても、意外と慎重であり、決断力もあり、知識欲も旺盛で、次代のリーダーに相応(フサワ)しい逸材だと見込んだから、らしい。そういう人物と、一度、会ってみたい、とエンゲルスは思った。そうしてケルンに着き、「ライン新聞」の事務所を訪ねてみると、中から出てきたのは、いかにも不愛想な青年だった。マルクスは、疑心暗鬼だった。彼は、エンゲルスが検閲側の密偵ではないか、と勘繰り、内心、怯(オビ)えていたのである。マルクスは陸(ロク)に挨拶もせず、慎重な話しぶりで、警戒心を解かなかった。エンゲルスは、しかし、余計な詮索はしなかった。二人の初対面は、それで終わった。