手塚治虫 本末天道虫 その2 我と共に来たり、我と共に滅ぶべし


1947年、春、放課後の教室の窓際で、男は、心ここに在らず、といった有り様で、桜の花の散る様をニンマリと眺めている。本当は、笑いが止まらないのである。1月に発売になったデビュー長編「新宝島」が好評で、重版増刷が決まったのだ(これは、最終的に、40万部の大ヒットとなる)。学生にして職業漫画家。夢は妄想となって、現実を押し退(ノ)け、モチベーションだけは、益々、膨(フク)らみ、持ち前の行動力は前のめりに突き進む。

夏は、瞬(マタタ)く間にやってきて、男は鉄路、昔日(セキジツ)の花の都にひた走る。目的の有力出版社、講談社へのおしかけ挨拶を済ませたその足で、往年の人気漫画家島田啓三を訪ねると、島田は、遠路よくおいでになったと、歓待してくれた。男は、島田の出世作「冒険ダン吉」に心酔していたこともあり、盛んにいろいろ称賛するので、島田も悪い気はしない。そこで、男は、今、これが受けているんです、と自分の作品「新宝島」を取り出して、素直に、講評を依頼する。島田は、一瞥(イチベツ)して、“手塚君、こんな形式のものは、君の作品だけにしてほしいね。”、と言ったきり、押し黙ってしまった。

合点がいかない。若い手塚には、何のことか、見当がつかない。聞き返すわけにもいかず、早々に島田邸を後にしたが、結局、分からず終(ジマ)いだった。若さ故に、真に受けてしまった手塚の心情も分からないではないが、老獪(ロウカイ)な先達(センダツ)にしてみれば、有望な新人には、誰に対しても、そう言って、抑制とも、鞭撻(ベンタツ)とも取れる態度をとっていたのかもしれない。それが、先人の知恵というものである。

実は、こうしたアポなし訪問は、当時、そう迷惑がられたりするものでもなかったようである。奇しくも、この前年(1946年)の冬、一人の男が浅草駅のホームから日光行きの東武電車に乗り込んだ。思いつめ、緊張した面持ちの若い、その男の持ち物は、パンパンに膨らんだ書類カバンだけだった。それが、誰あろう、20代そこそこの若き日の芥川也寸志(自殺した作家芥川龍之介の三男)だったのである。彼は、作曲家を目指す血気盛んな若者であり、かねてより、尊敬していた伊福部昭(後に、映画「ゴジラ」のサウンドトラックを作曲)に会って、作曲家の心得について教えを乞おうと考えていた。そして、それまで書き溜めた自作曲のノートをすべてカバンに詰めて持ってきた、と言う訳であった。このアポなし訪問のことを芥川は「突撃訪問」と書いている。

日光に着くと、芥川は、早速交番へ行き、住所を確かめ、伊福部邸へたどり着いた。それから三日三晩、二人は、時に歓談し、時に激論を交わし、生涯の師弟の仲を結んで分かれた、と言う。芥川のノートには、次の言葉が残されている。“己自身の全てを、音楽で語らねばならない。” 帰路、芥川は、涙ながらに、自作の譜面、全てを廃棄した。もはや、過去は必要なかった。
2020年05月06日
Posted by kirisawa
MENU

TOP
HOME