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今度は、オペラ「フィガロの結婚」のアリア「もう飛ぶまいぞ蝶蝶」。これもモーツァルト。モーツァルトにはモーツァルト、と言う、音楽の返礼なのである。黒人兵の名は、ジョーと言った。下級兵だが、インテリで、オペラ・ファンであった。
学生は、或る日、ジョーに、似顔絵をデッサンしてプレゼントした。ジョーは感激した。この漫画好きの学生に、ジョーはできることはしてやろう、と思った。そして、抱えきれないほどのアメリカン・コミックを、ジョーは学生に返礼として贈った。思いがけない贈り物に学生は狂喜し、旱天(カンテン)の慈雨、と感謝した。学生の名は、手塚治。
それから間もなく、ジョーは移動となり、大阪を去った。その日、見送りに行った手塚に、“バーイ、ミェズカ!”、とジョーは挨拶した。何故、そう訛るのか、手塚は腑に落ちないまま帰宅したという。
実は、この年の1月、手塚は、「少国民新聞」に「マアちゃんの日記帳」というデビュー作(と言われている)の連載を始めただけでなく、宝塚歌劇編集部のスタッフにも参加し、記事も書くなど、一気に活躍の場を広げていた時期で、7月には、偶然、「毎日小学生新聞関西版」の編集スタッフと知り合い、「A子ちゃんB子ちゃん探検記」の連載が決まるなど、19歳7カ月にしてもう一端(イッパシ)の漫画家先生であったのである。当時としては、快挙、と言うより、珍事と言った方がいいくらいである。しかし、まだ、一部の関係者にしかその名は知られてはいなかった。しかも、阪大医学部の学生であり、二足のわらじを履く、貪欲な野心家であると共に、春を謳歌して已まない当世の若者であり、世間知らずの人生の駆け出しに過ぎないひよっこ、とも言えた。
手塚の高尚な趣味は、育ちによるが、しかし、その傾向は、性格的なものである。彼の、クラシックの好みははっきり、ロマン派、特に、チャイコフスキーとブラームスに偏重するが、他を聴かないわけではない。モーツァルトも、父親がSPを買っていたので、昔から聴いていたと書いている。手塚は、好き嫌いは別としても、教養として、聴くべきものは一通り修めていたようなので、この時も、モーツァルトを襟好みしたりすることもなかったのだ。
寧(ムシ)ろ、情報としては、モーツァルトにも関心があり、造詣は深かったと思う。