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(三島由紀夫「朱雀家の滅亡」)
往年の老優、中村伸郎(1908.9.14.-1991.7.5.)は、この特異な才能の持ち主の陳腐な最期について比較的冷静に、淡々と述懐している。彼の死は、彼自身の舞台からの退場を意味する以上のものではなく、ただ、彼の残した戯曲の神髄を極めることは現実の役者には、おそらく、不可能だろう、と嘯(ウソブ)いてみせるのだ。美学的陶酔。それは、三島の作品によくみられる共通の、お決まり、と言ってもいい、華麗な独特のセンチメンタリズムに彩(イロド)られたシニシズム(三島自身は肉体的劣等感によるという)から生み出されるロマンティシズムであり、それは、彼の創作の背景にある絢爛(ケンラン)たる上流社会と知識階級との意識の親和性と深く結びついている。この「朱雀家の滅亡」は、1967年、中村も参加した因縁深い作品で、既に、三島の自滅願望は表出していたのであるが、それ以上に重要なのは、この物語が、自分の力では、もはや、運命に抗しきれず、ただ、生きていくことのためだけに生きていく他はないという、ニーチェの永劫回帰の運命愛がテーマとなっていたことであった。
三島の行き着く先は、この時、決まっていたのかもしれない。彼は酔っていた。自分に、酔い痴れていた。そして、疲れていた。疲れていた。最後の小説「豊饒の海」は、1969年、脱稿した。全編、唯識(ユイシキ)という禅の概念に貫かれた転生(テンショウ)の物語。運命の赴くままに、時空の流れに翻弄(ホンロウ)され、彷徨(サマヨ)い、変転していく男女の行く末を追っていく大作である。ところが、作者は、三島は、現実を彷徨い始めていた。何もかもが、遠去かっていく。自滅への予感が想起し、破滅への願望が膨(フク)らむ。自己実現の錯覚が充満し、自己満足に歓喜する。だが、疲労はピークに達しようとしていた。疲れていた。苦悩と迷いは続き、自分を欺き通すのは、限界だった。疲れていた。誰かに吐露(トロ)したかった。憑(ツ)かれていた。
1971年7月、三島は中村に言った。「本当なんだ、「サド」・「ヒットラア」、もう書きたかったことは書いてしまって、後は無いんだ。本当に。判ってくれる?」その顔に噓(ウソ)は無かった、と中村は回想している。二人は芝居の仕事以外では、寧(ムシ)ろ、立ち位置は正反対である。しかし、三島は、何故か、中村と懇意にしたがった。それは、思うに、俳優としての中村に、品があったためであろう。そういう俳優を三島は好んだ。しかし、中村は、楯の会のコスチュームに得意気な、子供じみた三島に鼻白んでいたし、彼らが自衛隊に短期入隊すると、聞かされれば、自衛隊など一人も要(イ)らぬと思う、と平然と言ってのける人物であった。
そして、運命の11月、その日がやってきた。三島は、目論見通り、建物を占拠し、アジテーションを行い、死のイニシエーションに臨んだ。これを、愚行だとは、誰も言わない。三島の辞世は、 世にも人にもさきがけて 散るこそ花と吹く小夜嵐 (散るをいとふ) というものである。事件から1年も経つと、もう、とやかく、言う人もいなくなる。あれは虚構だったんだ、と。忘却する人はいないが、取り合う人もいない。三島の本当の苦悩は創作の糧(カテ)の枯渇にあったのかもしれないが、その焦りや鬱積(ウッセキ)を真に理解する伴走者の不在が彼にとっての不幸だったのかもしれない。中村は、三島の死後も、その戯曲の価値を高く評価し、再演の度に朗誦体(ロウショウタイ)のセリフの優雅さ・美しさを賛美してやまなかった。彼は言った。三島は、死んだとは思わない、と。