You need me, perhaps, or I need you chapter 1


猫にコバンザメ。

猫、とはあのネコのことである。ネコは気なり、気まま、気まぐれ、と言われながら、気品ある、気高い動物の仲間に入っていたりするが、実は、夜行性・肉食の、結構wildな動物に分類される、かなり、outlaw的存在である。第一、昼と夜とでは顔つきが変わる。つまり、瞳(虹彩)が明るい時は収縮し、暗くなると拡張したりするものだから、表情が一変するのである。これは、要するに、視覚環境(光)の変化に敏感で、常態的に“狩り”の準備がなされていることを示しているのであり、存外、油断のできない生き物といえる。

中国の伝説的指導者鄧小平(1904.8.22.-1997.2.19.)は、虚を捨て、実を取る、(彼の場合、実利を上げる、という面が強い。)の例えとして、「白い猫でも、黒い猫でも鼠(ネズミ)を獲るのは良い猫」と語り、猫の捕食性だけを問題にするような発言をしたが、それは彼が、稼ぎの悪い奴はどうしようもない、という先入観に囚われていたからかもしれない。それとは比較しようもないが、夏目漱石(1867.2.9.-1916.12.9.)の名著「吾輩は猫である」の冒頭では主客が転倒し、猫の独白から始まる。そこでは、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」などと、品格ある紳士然とした、ある意味、孤高の存在ででもあるかのような動物として登場し、終(ツイ)には、人間の隣人(今でいうpet。)としての地位を確保するのである。

一方、コバンザメは、と言うと、parasite(寄生生物) typeの代表格というimageが強く、評価的には損をしている。大体、分類上、スズキ目の魚であり、サメ類ではない。確かに、その生態は自分よりも大型のサメやカジキに頭部背面の小判型吸盤で吸着し、食べ溢(コボ)しや排泄物を摂取して暮らしているのは事実である。だからといって、その存在を強(アナガ)ち否定することはできない。コバンザメは海の汚物を取り除くことに貢献している魚であり、しかも、その生態は合理的、また、環境重視型である。一面的な比較はできないが、見方によっては、自然の摂理というものではないだろうか?

猫が、もし、裕福な環境に住む人間の生活圏に寄生しているのであれば、何らかの循環によって、人間の世界に貢献しているだろうし、コバンザメもまた、遠回りではあるが、自然界に対して十分な貢献をしていると、認識されて然るべきであろう。猫は、確かに、コバンザメと遭遇したとしても、その存在意義自体を知らず、まして、それが、自分の世界とどう交わるか、も理解することはできないだろう。そうしたことは、人間の世界でも無数にある。存在同士の関わり合いは、認知できるものもあれば、認知できないものもあるということを、常に念頭に置くべきである。以上が、猫にコバンザメのお話。
2019年07月03日
Posted by kirisawa
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