自我と人格 その2(後編)


ヒトは危険を察知すれば回避行動をとる。と思われがちだが、実は前頭前皮質(第3層の脳)には、闘争、あるいは逃走、あるいは硬直(応答)(fight-flight-freeze responses)という行動原理があり、3つの内の各れかの反応を示すのであって、それは各々の個体によって異なる。一様に同じ行動をとる訳ではない。

又、前頭前皮質(第3層の脳)の機能として最も注目するのは、成果の追及である。何らかの発想から行動し始める時、その結果について実現可能な予測を立てた上で実行に移るが、より多くの成果を得るため、初期目的を達成しても、期待できる次の目標を設定し、さらなる成果を求める。そして、その最終目標を"内的ゴールinternal goal”と位置づけ、最良・最短のルートrouteを追求するのである。

以上の事実を踏まえ、ここからは、10代の個体に大きな影響をもたらす次の事象、”競争(competition)”について述べる。これは種々の分野で広範囲に行われている。試験、競技、営業成績など枚挙にいとまがない。これも動物行動学の見地から見ると、食料争奪・確保、なわばり、生殖行動の3つに集約される。ヒトの場合、それと何らかの共通項があるような、無いような、浮遊感を感じるが、その基本動機には性的動態による配偶者の選別・確保があり、その条件である優位性の証明の手段として複雑な競争状態が作り出されると考えられる。要するに、社会的地位(status)の誇示と序列上位への昇級が競争の主目的と推定されるのである。そして、それは脳の報酬系を生理的背景とする自己承認欲求self-approval desire(自分の能力・技芸・容姿を公けに認めてもらいたい)を満足させることを意味する。

運動などで、競争が意識されると、ノルアドレナリンの分泌が開始され、緊張と軽い興奮状態が発生する。それと同時に、加えて、テストステロンも分泌されて、全身にその作用が及び、行動の準備が完了する。これは、一般のペーパー試験のようなものでもメカニズムは同じで、自律神経系が刺激され、緊張と興奮を伴う生理現象が起こる。

そして、その情報は瞬時に前頭前皮質(第3層の脳)に伝わり、成果の追及の経路を起動させ、一方では、客観的かつ冷静な判断を行う回路も作動させる。この対照的な作業を同時進行することも前頭前皮質の実行機能executive functionの特徴であり、常に修正プログラムupdate programを用意しながら、適格な決定を下していくことが基本となっている。

ここで、ブレイクbreak。しばしば経済学で使われる競争原理という言葉と近未来について。

競争原理とは資源(経済価値を持つあらゆるもの。)配分の効率性の概念であり、個人(個体)、もしくは、集団が、限定されている資源を獲得しようとして競争が繰り広げられるのは不可避であって、高生産性(一定の資源からより多くの付加価値を得る、あるいは、より少ない資源で一定の付加価値を生みだす、その効率が良いこと。)を有する者だけが独占、又は分割占有する、という考え方である。これは資本主義の基本原理の一つであるが、競争の本質を示すものとして、本論とも相通じる。

しかし、経済学では市場の維持が画られなければ、成長を持続させることはできず、競争が終了してしまえば、市場を維持することはできない。それ故、市場への参加者を常に確保しておくには、その扉はいつも開かれていなくてはならず、それを保証するものとして、社会は平衡を保った状態を維持しなければならない。つまり、市場を支え、競争を可能にしておくには、社会の均衡が必要不可欠であり、これこそが、自由経済の根幹をなすものなのである。

ところが、21世紀の現在、その根幹は揺らぎ始めている。資源は(富も)、既に寡占化されており、格差disparityが進行し、分化は決定的と成りつつあり、安定していた社会構造は変化しだした。そうした状況の中、階層hierarchyの底辺部分に光を当てたベーシック・インカムbasic incomeという手法がフィンランドやスイスで実験的に導入されていて注目を集めている。これは、最低限の所得を行政が保障するものであるが、その財源をどう手当てするのかは、定かでない。ただ、現状を考えてみると、近未来にはあらゆる分野で加速度的にIT化が進み、AIとの共生社会が出現することは目に見えている。当然のことながら、それは本格的な全階層での資源の再配分を要請することになるだろうし、労働の質と量の関係にも新たな価値を付加することになるだろう。そして、その変革はヒト社会を次の次元へ飛躍させるものとなるのかもしれない。

競争は勝者と敗者とを生む。勝者は合格とされ、敗者は失格とされ淘汰される。勝者は昇格するが、さらに上のランクrank(順位)を目指して挑戦challengeすることを要求requireされる。この構図は個体が納得agreementするか、断念するgive upまで、生涯変わらない。このことは、10代の自我にも漠然とではあるが意識され、直感的にそのドライdryさ(割り切り)に虚無感を抱く(“無常”などと表現される。)こともある。

だが、多くの場合、ヒトは配偶者を得て、次世代の教育・養育に励む。そして、それもこの構図の継続の中にあり、自らの経験に鑑みて、いかにして競争を乗り切っていくのか、ということに重点が置かれてしまう。これは20代から始まり50代に至る人格の完成期に向けての経過の中で、自らを振り返りつつ、次世代がより成長し、より向上した存在となること(何故、それを望むのか?その基本動機はより哲学的な命題であり、ここでは省く。)に期待をかけているからに他ならない。

そもそも、世代交代とは情報の受け渡しによる知の拡張と財の拡大を基調に種の隆盛を目指すものであった。蓄積された学習知・経験知を次世代に伝達し、多様に展開する様々な目的に合致させて、さらなる発展の礎(イシヅエ)とすることこそが、ヒトの、個体の生存の意義であり、運命だったのかもしれない。

ところで競争の結果、淘汰された個体にも自分自身によるセーフティーネットの仕組みがある。そして、すべては成長のプロセスであって、競争もその一部を成すものである。そこで体験する学習知・経験知を総合化することと知的・身体的体力の強化こそが、人格にとって必要とされる情報(知識だけでなく、情動の記憶も含む。)なのであって、それを吸収するためのチャレンジchallengeであれば大いに価値があると言える。それ故、事の大小はあれ、再起recoveryするきっかけを見つけるために、ペースダウンpace downし、環境を変えることを躊躇すべきではない。時間的経過と空間的移動によって、障害となるものを克服し、自我を成長させ、強固な人格を築くことに注力すれば立ち直り再出発することができるのだから。
2017年11月05日
Posted by kirisawa
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