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A night wrapped only in mystery。
世界戦争後の民主日本を支えた思想を「戦後民主主義」と呼ぶ。その原型を平易に一般に伝えたのが,鶴見俊輔ら同人7人によって1946年,第1号が発刊された雑誌「思想の科学」である。その七人とは,鶴見俊輔,鶴見和子,武谷三男,武田清子,都留重人,丸山真男,渡辺慧である。そこには主権在民とは何か,人権の保護,不戦不可侵,平和主義など,戦後日本の進むべき道が表明されていた。
1949年「思想の科学」研究会が正式に発足し,会長に東大法学部教授の川島武宜を迎えて,その活動はさらに多元的な学際研究の場となり,新たに独自の視点で活動する参加者をも引き寄せ,久野収,竹内好,佐藤忠男,いいだももらも寄稿するようになった。「アメリカ思想史」,「転向」,「占領」など,知識人自身の問題でもある政治的立ち位置にも言及し,一般市民の関心にも答えようとする姿勢を見せていく。「思想の科学」は研究会の機関誌となり,先駆社(1946-1951),建民社(1953-1954),講談社(1954-1955),中央公論社(1956-1961),思想の科学社(1961-1996)と発行所を変えて刊行され,1996年の休刊後も,同人誌「活字以前」として研究者の間で今も読まれている論壇を代表する雑誌である。
鶴見俊輔のハーバード仕込みのプラグマティズムを基に,「思想の科学」は多元主義の大学アカデミズムと在野の思想家を結びつける役割を担う存在となっていった。そして,さらに,「思想の科学」は,やがて,「声なき声の会」,「ベ平連」の担い手たちと結びつき,人脈的接点も多く,1960年代の一時期は非暴力を掲げる市民運動として大衆の動員にも成功した。特に,空母イントレピッドの反戦兵士を匿(カクマ)い,スウェーデンへの亡命を扶けるなど,マスコミをも利用した活動で話題となった。
その一翼を担った一人,久野収は70年代前半の左翼瓦解の後も「戦後民主主義」陣営のの生き残りとして,警察国家化する権力の監視役を担った発言者であった。1975年夏には平凡社の月間百科に寄稿し,戦後30年の自らの所見を述べた。その中に,民族主義警察国家である敗戦直前の大日本帝国の施政方針の一端を垣間(カイマ)見ることができる。以下はその抜粋である。
今年の夏は,年をとったせいか,とりわけ暑く,夜もろくろく眠れないが,その酷暑の中で,30回目の敗戦の日がまた巡ってくる。30年といえば,人生の半ばなのだから,相当の年月のはずである。ところが私にとっては,15年戦争(日中戦争)の時間の方が,はるかに長く感じられる。戦後の30年は,気忙(ゼワ)しい動きの中で過ぎ去ったせいか,ふと気づくと老人になってしまっていた。
眠れないままに「ドキュメント昭和史」第五巻(平凡社)を捲(メク)っていたら,潜伏直前の昭和20年8月10日,内務省警保局保安課長名前で,各府県警察部長宛に出された暗号電報の訳文が掲載されているのが目にはいった。「要非常措置者の視察内偵中の容疑者(反戦和平分子,左翼,内鮮,宗教)に対しては情勢の推移に応じ,直ちに非常措置を完了し得るように万全の具体的準備をなすこと」と書かれている。
当時,私は“思想犯保護観察”に附せられ,特高警察官の内偵査察を受けていたから,この条件にきっちり当てはまる。その非常措置とは文面からは分からないが,(略)私にはどうも抹殺せよとのことだったように感じられる。
一番の問題は,この電文を出した内務省の親玉どもが八月十五日の降伏受諾への動きを知っていて出したとすれば降伏後の国民の政府への憤激の動きの中核を前もって摘み取っておこうとする冷静な計算から出ているのかもしれない。
知らずに出したとすれば,当時の軍部の計画していた水際作戦の邪魔になる分子を根こそぎ沈黙させておく意図からであろう。水際作戦になれば,国民の千万人以上の生命を犠牲にする結果になり,それを承知の上で,やろうというのだから,一部の要観察人の運命などものの数ではないのも当然である。(略)
“非常措置”という内容不明瞭なコトバを使っているところなど,内務官僚の悪賢さをよく語っている実例の一つである。このような“非常措置”への万全の準備は,現在もまた少しずつ整えられているのかもしれない。
久野収は1999年2月9日,87歳で逝去した。久野の「戦後民主主義」の担い手は「市民」であり,一般大衆では無かった。彼は,大衆は烏合の衆であってはならず,大衆は「市民」として自覚を持たなければならない,とし,その啓蒙にこそ知識人の努力が必要だと考えた。「市民」という概念は民主主義社会の基盤であり,個々人は対等な権利と義務を持つ平等の原則に依拠すると久野は思った。この思想は社会党右派の江田三郎らを刺激し,60年代後半の混沌とする政治状況に一石を投じたが,学生反乱と党内抗争の中にかき消されていった。画して「戦後民主主義」の芽は摘まれ,新左翼の残したシラケタ瓦礫(ガレキ)の一部と化した。
世界は戦前の特別高等警察やゲシュタポや東ドイツのシュタージのような,あるいはロシアのFSB,アメリカのFBIなどの秘密保持のための集権管理社会の警察国家に向かっているような気がする。情報は操作され,世界はますます狭く,均一化が進み,多元化を隠れ蓑にした分裂分断のカオスへと突き進んでいく。行き着く先は,最早,電脳にも分からない。そんな気がする。DNA解析が進めば,又,大量のデータが蓄積され,もしかすると,生命そのものの秘密も解き明かされて仕舞うかもしれない。それは,謎だけを纏(マト)った夜のように,果てしない宇宙の手の届かない幻影にすぎなかった,のかも。