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メタヴァースとは,SF作家ニール・スティーヴンセン(Neil Stephenson 1959.10.31.)の1992年のサイバーパンク作品「スノー・クラッシュ」に登場する超亜空間のことである。その空間ではアヴァターと呼ばれるヴァーチャル世界の分身が登場し,現実では体験できない体験ができ,金儲けもあり,異性との交流もあり,さながら,この世の天国といった体を成している。言わば,完全にリアルな現実世界に居ながらにして,異世界の住人として生活することができるという訳だ。当然,仮想空間と現実との間にはギャップが生じるが,それは,仮想の別世界の幻想にかき消され,夢想の世界に堕ちた自分を,最早,制御することはできなくなる。夢を見ていた自分が夢の中の自分と交錯し,どちらが本当の自分かも定かでなくなる。でも,夢は夢に過ぎない。その実体無き虚飾の人格である異世界の自分は実は分身とはいえ,現実の自分自身でもあったことに気づく。何故なら,異世界に転移することが経済行為であるからだ。
ヴァーチャルの空間に存在する自分は観察者だけではあり得ない。例え,分身が性別や年齢も別の人格となったとしても,その仮想空間に入るのにも,きっと経済的負担がいる。そこで知り合う男も女も,大人も子供も,実在の名前も,性別さえも分からない。ただ,社交のために拡張・誇張され正体の分からない分身と交流するのに時間を浪費するなど無駄なことだ。そこには,カードゲームにも似た子供じみた架空の疑似体験だけの世界があるだけに過ぎない。虚構の連鎖によって繰り広げられる亜空間での悦楽など,空虚で些末な人間関係を作ることしかできない。その仮面劇に酔い,現実世界から逃避するのに,果たして何の価値を見いだすことができるだろう。