ニーチェ 神は死んだ(1);近代ドイツ 14


ニーチェ 神は死んだ(1);近代ドイツ 14

ニーチェ(Friedrich Wilhelm Niezsche 1844.10.15.-1900.8.25.)はプロイセン王国ザクセンのリッツェン近郊にプロテスタントの牧師を父として生まれたが,その父を5歳の時に失い,母と妹エリザベート共にザーレ湖畔のナウムブルクに移った。プォルタ校の人文主義教育は彼にギリシャ・ローマ文化に強い憧憬を抱かせ,1864年,ボン大学に入学すると,神学及び古典文献学の学生となったニーチェはリッチェル(Friedrich Wilhelm Ritschel 1806.4.6.-1876.11.9.)教授の感化を受け,その転任の後を追って,ライプツィヒ大学へ移っていく。ここで,彼は,同じく古典文献学を専攻するエルヴィン・ローデ(Elwin Rohde 1845.10.9.-1898.1.11.)と親交を結ぶ。

若きニーチェの著作を理解するには,1865年,ショーペンハウアー(Arthur Schopenhaur1788.2.22.-1860.9.21.)の「意志と表象の世界」を偶然下宿先の古書店で購入したことと1868年11月,リッチェルの紹介でライプツィヒに滞在していたワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 1813.5.22.-1883.2.13.)と面識を得たことを抜きには論じられない。その夜,ニーチェとワーグナーは深夜まで,ショーペンハウアーの著作について大いに語り合ったという。青年ニーチェについて語るには,ワーグナーのその音楽の魅力について知らなければならない。ワーグナーが愛人コジマとスイスのルツェルンにほど近いトリープシェンの別荘に住んでいた頃,ニーチェは屡々(シバシバ)ここを訪れ,信奉する偉大な創造主と議論を交わすことを何よりも楽しんだ。1869年,ニーチェは24歳の若さで,博士号も教員免許も取得していなかったが,リッチェル教授の推薦のみで,スイスのバーゼル大学古典文献学の教授に招聘された。しかし,あろうことか,1870年7月,普仏戦争が始まると,志願看護兵に応募・従軍して,赤痢とジフテリアに感染し,以来,彼の健康は終生損なわれることになった。

ワーグナー邸のサロンの常連となったニーチェはマルヴィーダ・フォン・マイセンブーク(Malvida von Maysenbug 1816.10.28.-1903.4.23.)という婦人運動家と知り合い,その女性の紹介で友人のパウル・レ-(Paul Ree 1849.11.21.-1906.10.28.)と共に,1882年ローマでルー・ザロメ(Lou Andreas Salome 1861.2.12.-1937.2.5.)という著述家の女性に会う。ニーチェは,その愁いを秘めた瞳に魅了されるが,その恋は実らず,ザロメはレーと去っていった。それより以前,1872年,ニーチェは最初の著作「音楽の精神からの悲劇の誕生」を発表し,気を吐いた。この著作は,ワーグナーの影響の下,殊に「トリスタンとイゾルデ」に魅惑されて生まれたもので,高級な音楽評論と見做される。ギリシャ悲劇の成立と衰亡の過程に新しい解釈を加え,音楽のディオニソス的(祝祭的)精神が文化創造の原動力であることを説き,その基礎付けに,ショーペンハウアーの形而上学を借り,ワーグナーの楽劇によるドイツの文化の興隆を期待した。ヴィンケルマン(Johann Joacim Winckelman 1718.12.9.-1768.6.8.)やゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1749.8.28.-1832.3.22.)以来,ギリシャ文化はアポロン的側面だけが強調されてきたが,ここにディオニソス的側面を加え,その解釈は新奇で新鮮なものとなったが,専門の文献学者たちからは受け入れられなかった。

1876年に発表された4編からなる「反時代的考察」は,普仏戦争の勝利に熱狂するドイツ国民に痛烈な批判を加え,世論を煽(アオ)り,扇動する新聞文化をも非難する冷徹な視線を投げかけるものであった。その第一弾「信仰者兼著述家ダヴィド・シュトラウス」はヘーゲル主義的神学者シュトラウスを“教養ある俗物”と攻撃して,大反響を呼び,第二弾「生に対する歴史の利害」では,歴史主義に対する批判を行って,歴史を三分類し,記念碑的,骨董的,批判的,と位置付け,それぞれをためにするための著作だと,扱(コ)き下ろした。第三弾「教育者としてのショーペンハウアー」では趣を変え,ショーペンハウアーを哲学者のあるべき姿と礼賛したが,それはニーチェ自身の哲学者としての決意を述べたに過ぎず,ショーペンハウアーの実像と一致するものではなかった。最終巻「バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー」は,楽劇「ニーベルンゲンの指輪」の上演前の予告的側面が滲(ニジ)む美しい熱狂的賛辞ではあったが,それは,即ち,ニーチェにとって,ワーグナーは偉大な天才であって,その彼に奉仕し,新しいゲルマン的ヘレニズム(ワーグナー独特のコスモポリタニズム)の文化に貢献することに専心してきた自分との決別を意味していた。それは,ワーグナーの壮大なロマン的病的理想に心酔すると同時に,ニーチェ自身がその天才への嫌悪感に居た堪れなくなっていたからである。それこそ,やがて,ニーチェ自身が到達することなる羨望,ルサンチマン,妬みの感情だったのである。1879年以降,ニーチェは激しい頭痛に悩まされるようになっていく。

ニーチェの病的体質は,彼の育ったナウムブルクの環境にその遠因を見出すことができる。その中世キリスト教的建物の持つ存在感は圧倒的であり,小都市特有の閉鎖性から来る心的束縛は,幼いニーチェに怖れの感情を抱かせ,その後の人生に大きな影響を与えることになった。1878年,アフォリズム(格言・箴言)による最初の思想書「人間的な,あまりに人間的な(第一部)」を発表したニーチェは続編では,人間の自由精神に言及すると共にドイツロマン主義やワーグナーの大衆思考と一線を画し,現象的実証主義の立場に立ち,自律的な力(理力)の存在を説き,1881年,「曙光」で快楽主義を否定し,力の感覚の自覚を促す。そして,1882年,「悦ばしき知識」において,その中期の思想は頂点を極める。ニーチェはここで,生の条件である生きることの歓びに注力する。永劫(エイゴウ)回帰という同じ生を繰り返して生きるという宗教的教義の死の概念を覆(クツガエ)す教えは,生きることにこそ意義があるという実存を意識させるものであった。即ち,現存在としての自分を自覚できるのは,自分だけである。つまり,相対的非存在である神は,自然主義的にも美学的にも,今,死んだのである。
2022年06月28日
Posted by kirisawa
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