リヒャルト・ワーグナー 民族的芸術の躍動(3);近代ドイツ 13


リヒャルト・ワーグナー 民族的芸術の躍動(3);近代ドイツ 13

何分にも,ワーグナーは余りにも情念に忠実であって,その行動も独断に過ぎ,チャンスを逸することも屡々(シバシバ)であり,自分の芸術的欲求を優先させる余り,その上演の準備が間に合わないこともあった。しかし,そんな彼ではあったが,幸運にも,1864年,バイエルンの青年国王ルードヴィヒ2世(Ludwig Ⅱ 1945.8.25.-1886.6.13.)の突然の招聘を受け,歌劇のみならず,彼が身を注いだ総合芸術の実現という好機が訪れる。ワーグナーは王の期待に添い,ミュンヘンに居を移し,創作に励み,国立バイエルン祝祭歌劇場の建設構想をも進言したが,1865年,彼を誹謗する勢力によって,又してもスイスのルツェルン郊外のトリープシェンに追われることになった。

そんなワーグナーの下を訪ねる若い哲学者が現れる。フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche 1844.10.15.-1900.8.25.)である。若き哲学者はこの芸術革新運動の教祖的人物に心酔し,度々ワーグナー邸を訪れ,その渦中にあって文才で彼の業績を賛美し,運動のアジテーターを演じた。1867年,歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」完成後,1869年,ワーグナーは,反メンデルスゾーン的な「指揮について」,1870年,音楽哲学論文「ベートーヴェン」を,又,未完成の自叙伝「我が一生涯」を立て続けに著し,自画自賛すると共に,ハンス・フォン・ビューロー(Hans von Bulow 1830.1.8.-1894.2.12.)の妻であったリスト(Franz Liszt 1811.10.22.-1886.7.31.)の娘のコジマ(Cosima Wagner 1837.12.25.-1930.4.1.)との同棲を解消し正式に結婚した。この時期のワーグナーは,その虚構に過ぎない自叙伝の執筆やルードヴィヒ2世を唆(ソソノカ)して王国の財政破綻の遠因を作ったことで,後世の歴史家から大いに非難論難されるところである。ニーチェは,天才的な彼の処世術に大いに幻惑され,その名誉欲の犠牲とされたに過ぎないことに気づいたが,その経験と軌跡はニーチェ自身の半生の語り得ぬ側面となった。


 1872年5月,舞台下にオーケストラ・ボックスを設置する長年の宿望である歌劇場がバイロイトに着工される直前,ワーグナー夫妻はこの地に移った。

 1874年,「ニーベルンゲンの指輪」は事実上の4連作として完成し,その内容は,プロローグ「ラインの黄金」,本編は「ヴァルキューレ」3幕,「ジークフリート」3幕,「神々のたそがれ」3幕から成る大作で,上演には連続4夜かかる。1882年,「パルジファル」初演後,ワーグナーは保養のため,ヴェネツィアに赴いたが,1883年2月13日,心臓発作により客死した。遺体はバイロイトに移され,私邸ヴァーンフリートの邸内に葬られた。69歳だった。
2022年06月26日
Posted by kirisawa
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