リヒャルト・ワーグナー 民族的芸術の躍動(2);近代ドイツ 12


リヒャルト・ワーグナー 民族的芸術の躍動(2);近代ドイツ 12

ワーグナーは,ハイネに感化されて,1842年,「さまよえるオランダ人」を完成させ,その直後,故郷ザクセン王国ドレスデンに戻り,10月「リエンツィ」の初演で大成功を治め,1843年2月,ザクセン国立歌劇場管弦楽団指揮者に任命された。ワーグナーは,音楽のみならず,文学界においてもその偉大な足跡を残した両面的天才であり,音楽の世界では,ロマン派を大成させた大作曲家であり,文学史においては,新ロマン主義の戯曲面での巨人であった。そして,ドイツ人としての誇りを持つ一方で,ドレスデン宮廷歌劇場監督で社会主義者のアウグスト・レッケルの影響を受け,統治機構としての国家を否認し,自由共同社会(アソシエーション)と言う一種のコミュニティー思想に染まっていく。

1845年4月,「タンホイザー」を作曲・上演し,ロマンティックな純愛の勝利を謳い上げた。又,夏には,「パルチーヴァル」,「ドイツ人の誌的国民文学の歴史」を読み,ドイツの伝統的歴史的文学世界に開眼していった。1846年,毎年恒例の復活祭の前の日曜日のコンサートに敬愛するベートーヴェンの「第九」を演奏し,忘れられ欠けていたその名曲の再演を大成功させた。しかし,劇場上層部との対立が顕著となり,遂に1847年,その職を辞す。この年,ヤーコブ・グリムの「ドイツ神話学」を読み,大いに啓発され,「ローエングリン」を作曲し,宮廷指揮者としての面目を誇示したが,翌1849年のドイツニ月革命に加担したこともあり,上演は中止された。

ワーグナーにとって,革命とは国民主義運動に滞らぬ世界主義的な展望を持つコスモポリタニズムの理想に近づく過程であって,それは,むしろ,世界革命の思想に近いものであり,それは手の届かない現実と遊離した空想に過ぎなかった。しかし急進的な男女平等の普通選挙の実現を主張するなどし,レッケルの仲介でロシア人の無政府主義者バクーニン(Micael Alexandrovich Bakunin 1814.5.30.-1876.7.1.)と会見したことも明るみに出て,官憲に追われる身になってしまう。画して,ワーグナーは逃亡・亡命する憂き目を見ることとなった。

このチューリヒでの亡命生活はザクセン王国の恩赦が出る1862年まで9年間に及び,その間にワーグナーは,性格欠陥者の烙印を押されたが,1850年,「未来の芸術作品」,1851年の「歌劇と戯曲」などの一連の論文によって,いわゆる総合芸術論を華々しく展開し,その天才性をも示したが,他方,チューリヒでの後援者ヴェーゼンドンクの若妻マディルデとの相愛は,1859年,ギリシャ悲劇に理想を求めつつ,創作中であった「二―ベルゲンの指輪」を中断させ,ショーペンハウアーの哲学への傾倒から,究極の愛の形としての死への憧れである実験作「トリスタンとイゾルデ」を完成させ,異彩を放った。この作品は,それまでの「ロマン歌劇」と趣を異にする作曲手法が用いられ,半音階や不協和音による無限旋律といった作曲法は,20世紀初頭の無調整音楽に接近・準備する作品であった。とはいえ,1861年の「タンホイザー」改作版のパリ公演の不成功や1862年のこの「トリスタンとイゾルデ」のウィーン上演企画の失敗は彼に大きなダメージを与えた。
2022年06月26日
Posted by kirisawa
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