リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 1813.5.22.-1883.2.13.) が生を受けたのは,ザクセン王国のライプツィヒである。父親は警察の下級官吏であり,母親はパン屋の娘であって,リヒャルトは第9子であり,父親は誕生から間もなく急逝した。そのため,母親のヨハンナ・ロジーネ・ワーグナーは当時俳優だったユダヤ人のルートヴィヒ・ガイヤーと再婚し,ドレスデンへ移住したが,この継父も彼が8歳の時死去し,翌年十字架教会学校に入学した。ワーグナーにはピアノの家庭教師が付いたが,一家と交友関係にあった歌劇「魔弾の射手」の作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(Carl Maria von Weber 1786.11.18.-1826.6.5.)の影響により,歌劇に熱中するあまり,運指の練習を怠ったため,演奏技術は一生身につかなかった。彼は早くから,文学的方向に傾斜し,11歳の時に学校で詩の競作で優勝,13歳でシェークスピア流の悲劇を自作,14歳でライプツィヒに帰住,ニコライ学校に転学,15歳になった頃,初めて,ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770.12.16.頃-1827.3.28.)の音楽に接し,感激し,音楽家への道を志したという。17歳のワグナーは,ベートーヴェンの第9交響曲をピアノ版に編曲し,マインツのショット社に出版を依頼したが断られている。彼は芸術的表現力に恵まれ,究めて感性的であって,独習で作曲を試み,文学ではホフマンに陶酔し,聖トーマス学校に転学直後に起こった,1830年のパリ7月革命に共鳴し,政治的社会的方向にも関心を示したが,音楽に勝るものではなかった。1831年,18歳でライプツィヒ大学に入学し哲学や音楽に興味を示すものの,数年で中退してしまう。ワーグナー自身はバッハの聖地,聖トーマス教会のカントル,テオドール・ヴァインリヒに師事し,対位法作曲の指導を受けており,音楽への道に踏み出していた。1832年,交響曲第1番ハ長調を書き上げると同時に歌劇「婚礼」を作曲,1833年,ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となったが,大した仕事は無かった。青年ドイツ運動のハインリヒ・ラウベ(Heinrich Laube 1806.9.18.-1884.8.1.)と知り合い,ラウペの発行する流行歌新聞に1834年,評論「ドイツのオペラ」を匿名で発表したが,歌唱美の優れたイタリア音楽やそのオペラの欠陥を補ったフランス音楽に比べ,ドイツ音楽は学識に忠実であっても,民衆には支持されない難解な音楽である,と書き,ドイツ音楽は堅苦しい肩身の狭く,新しい音楽はイタリア的でもなく,フランス的でも,勿論ドイツ的でもない大衆に支持されるものである,と主張した。
ワーグナーは,パリで再起すべく,1839年,ドーバー海峡を渡った。そして,偶然,その船上で知己を得た女性から紹介状を貰ったパリ在住の作曲家ジャコモ・マイアベーア(Giacomo Meyerbeer 1791.9.5.-1864.5.2.)の許に身を寄せた。しかし,ユダヤ人銀行家の息子だったマイアベーアの才能や聴衆の動員力に圧倒され,ワーグナーは,彼をドイツ人として,同国人として評価せざるを得なかった。それは,羨望と呼んでよかった。マイアベーアは彼に編曲や写譜の仕事を紹介し,その生活を支えてくれる公私にわたる友人であったが,ワーグナーは雑誌に小説「ベートーヴェン巡礼」を連載するなど,自分の主張を表面に出す機会を捉えて,ドイツ人であることに拘(コダワ)り,パリ在住のドイツ人社会との交流の結果,彼は政治的にも産業的にもドイツ人の閉鎖的後進性に気づき,文化的にも一層レベルの低い自国の政治的貧困にも目覚めていった。民衆から遊離したフランスの下層階級の無政府主義や自国のフォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach 1804.7.28.-1872.9.18.)の唯物論や急速にマルクス(Karl Marx 1818.5.5.-1883.3.14.)の主張に賛意を示しだしたハインリヒ・ハイネ(Christian Johan Heinrich Haine 1797.12.13.-1856.2.17.)などに影響され,やがて,恩人であるマイアベーアの生活を侮蔑するようになっていった。
1841年,ワーグナーは偽名で「ドイツ人のパリ受難記」なるエッセイを発表し,生粋のドイツ人よりユダヤ系のドイツ人は国籍に無関係にフランス社会に順応している,と書き,シューマン(Robert Alexander Schumann 1810.6.8.-1856.7.29.)への手紙では,マイアベーアを「計算付くのペテン師」と書いている。この心境の変化は1840年,独仏間に起こった国境問題と無関係ではない。これはフランス側がライン川を国境とすると主張したため起こった問題である。これに対し,ドイツ側には「ライン危機」と言う国民運動がおこったが,それはワーグナーには許容しがたい下世話な愛国歌謡を運動歌にしたものであって,ドイツ人としてのプライドを傷つけるものであった。画して,ワーグナーは,ユダヤ人の無国籍性に気づき,ドイツの民族的ステータスの向上を図るべく,作曲活動に励むことになる。
リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 1813.5.22.-1883.2.13.) が生を受けたのは,ザクセン王国のライプツィヒである。父親は警察の下級官吏であり,母親はパン屋の娘であって,リヒャルトは第9子であり,父親は誕生から間もなく急逝した。そのため,母親のヨハンナ・ロジーネ・ワーグナーは当時俳優だったユダヤ人のルートヴィヒ・ガイヤーと再婚し,ドレスデンへ移住したが,この継父も彼が8歳の時死去し,翌年十字架教会学校に入学した。ワーグナーにはピアノの家庭教師が付いたが,一家と交友関係にあった歌劇「魔弾の射手」の作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(Carl Maria von Weber 1786.11.18.-1826.6.5.)の影響により,歌劇に熱中するあまり,運指の練習を怠ったため,演奏技術は一生身につかなかった。彼は早くから,文学的方向に傾斜し,11歳の時に学校で詩の競作で優勝,13歳でシェークスピア流の悲劇を自作,14歳でライプツィヒに帰住,ニコライ学校に転学,15歳になった頃,初めて,ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770.12.16.頃-1827.3.28.)の音楽に接し,感激し,音楽家への道を志したという。17歳のワグナーは,ベートーヴェンの第9交響曲をピアノ版に編曲し,マインツのショット社に出版を依頼したが断られている。彼は芸術的表現力に恵まれ,究めて感性的であって,独習で作曲を試み,文学ではホフマンに陶酔し,聖トーマス学校に転学直後に起こった,1830年のパリ7月革命に共鳴し,政治的社会的方向にも関心を示したが,音楽に勝るものではなかった。1831年,18歳でライプツィヒ大学に入学し哲学や音楽に興味を示すものの,数年で中退してしまう。ワーグナー自身はバッハの聖地,聖トーマス教会のカントル,テオドール・ヴァインリヒに師事し,対位法作曲の指導を受けており,音楽への道に踏み出していた。1832年,交響曲第1番ハ長調を書き上げると同時に歌劇「婚礼」を作曲,1833年,ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となったが,大した仕事は無かった。青年ドイツ運動のハインリヒ・ラウベ(Heinrich Laube 1806.9.18.-1884.8.1.)と知り合い,ラウペの発行する流行歌新聞に1834年,評論「ドイツのオペラ」を匿名で発表したが,歌唱美の優れたイタリア音楽やそのオペラの欠陥を補ったフランス音楽に比べ,ドイツ音楽は学識に忠実であっても,民衆には支持されない難解な音楽である,と書き,ドイツ音楽は堅苦しい肩身の狭く,新しい音楽はイタリア的でもなく,フランス的でも,勿論ドイツ的でもない大衆に支持されるものである,と主張した。
1834年,マクデブルクのベートマン劇団の指揮者に就任し,女優のミンナ・プラナー(Christina Wilhelmine “Minna” Planer 1809.9.5.-1866.1.25.)と知り合い,1836年,「恋愛禁制」を作曲したが,劇団は解散してしまう。その後,ミンナと共にケーニヒスブルクに移り,結婚するが,独占欲の強いワーグナーと多感なミンナとはすれ違いが多く,1837年5月,ミンナは姿を消し,ワーグナーは新たに,ドレスデン,次いで帝政ロシア領ラトビアのリガに劇場指揮者として居を移し,多忙を極めるようになっていった。しかし,ワーグナーの同時並行の興味分散の性格が早くも始まり,7月,債権者に追われるように,ミンナを連れてロンドンに密航する。この航海が後の「さまよえるオランダ人」の原型となったと言われる。
ワーグナーは,パリで再起すべく,1839年,ドーバー海峡を渡った。そして,偶然,その船上で知己を得た女性から紹介状を貰ったパリ在住の作曲家ジャコモ・マイアベーア(Giacomo Meyerbeer 1791.9.5.-1864.5.2.)の許に身を寄せた。しかし,ユダヤ人銀行家の息子だったマイアベーアの才能や聴衆の動員力に圧倒され,ワーグナーは,彼をドイツ人として,同国人として評価せざるを得なかった。それは,羨望と呼んでよかった。マイアベーアは彼に編曲や写譜の仕事を紹介し,その生活を支えてくれる公私にわたる友人であったが,ワーグナーは雑誌に小説「ベートーヴェン巡礼」を連載するなど,自分の主張を表面に出す機会を捉えて,ドイツ人であることに拘(コダワ)り,パリ在住のドイツ人社会との交流の結果,彼は政治的にも産業的にもドイツ人の閉鎖的後進性に気づき,文化的にも一層レベルの低い自国の政治的貧困にも目覚めていった。民衆から遊離したフランスの下層階級の無政府主義や自国のフォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach 1804.7.28.-1872.9.18.)の唯物論や急速にマルクス(Karl Marx 1818.5.5.-1883.3.14.)の主張に賛意を示しだしたハインリヒ・ハイネ(Christian Johan Heinrich Haine 1797.12.13.-1856.2.17.)などに影響され,やがて,恩人であるマイアベーアの生活を侮蔑するようになっていった。
1841年,ワーグナーは偽名で「ドイツ人のパリ受難記」なるエッセイを発表し,生粋のドイツ人よりユダヤ系のドイツ人は国籍に無関係にフランス社会に順応している,と書き,シューマン(Robert Alexander Schumann 1810.6.8.-1856.7.29.)への手紙では,マイアベーアを「計算付くのペテン師」と書いている。この心境の変化は1840年,独仏間に起こった国境問題と無関係ではない。これはフランス側がライン川を国境とすると主張したため起こった問題である。これに対し,ドイツ側には「ライン危機」と言う国民運動がおこったが,それはワーグナーには許容しがたい下世話な愛国歌謡を運動歌にしたものであって,ドイツ人としてのプライドを傷つけるものであった。画して,ワーグナーは,ユダヤ人の無国籍性に気づき,ドイツの民族的ステータスの向上を図るべく,作曲活動に励むことになる。