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未知(道)なるものを道(未知)とし,道(倫・理)ならぬものを非理(非道)として,時空を超越する行(ギョウ)にこそ,彼我に辿り着く未知(道)が在る。
「人の心に生まれながらの善悪というものがあるとは思えない。又,善は善なるもの,悪は悪なるものと断ずる心とは何ぞや。」鎌倉時代に道元(正治二年一月二日 1200.1.19.- 建長五年八月二十八日 1253.9.22.)という仏僧がいる。初め,天台宗に入り,仏法房道元を名乗ったが,その宗旨である「本覚(ホンガク)思想」(個は個として,生まれたる時は既に,善良なるものであり,従って,往生の悟り・智慧をも潜在的に持っている,とする本性論。)に疑問は募(ツノ)るばかりであった。貞応二年 1223,日本の臨済宗の開祖,栄西(永治元年四月二十日 1141.5.27.- 建保三年七月五日 1215.8.1.)の直弟子,臨済宗黄龍派の明全(元暦元年 1184.- 嘉禄元年五月二十七日 1225.7.4.)に師事し,随身して,共に,最新の中国仏教を学ぶため,博多から南宋へ渡った。
「衆生を救い,成仏させる道とは?」「自分は如何にして悟りを得るか?悟りとは何か?」僧は,憧れの地を慣れぬ言葉で尋ねながら,諸国諸山を巡り,宝慶元年(南宋暦)1225年, 曹洞宗天童山景徳寺の高僧,如浄(隆興元年七月七日 1163.8.8.- 紹定元年七月十七日 1228.8.18.)の許に辿り着く。僧は,坐し,行(ギョウ)に励んだ。師は,この異国の若い僧の機縁を認め,禅定するための身心脱落の黙照禅,只管打坐(シカンタザ;非思量の坐禅)の極意を教授した。僧は,初めて,行の目的が自己の解放であり,世界・自然との調和であることを知り,その無限の思考空間の行から禅の極意を得悟した。即ち,そこに示されたものは善悪といった些細な心の澱みではなく,自由自在に変幻する太極の覚りであり,それは,唯識という多元世界を認識することで得られる悟りを意味した。行とはそこへ到達するまでの行程に過ぎないのであり,衆生済度とは,現実に苦しむ者に道標(ミチシルベ)となる徳を与え,安堵させることであった。それこそ,安心立命の境地と呼ぶものである。出家・在家を問わず,「禅を行う求道者は,ただ,身からも心からも,脱却し,自在となることである。」ということ,森羅万象(samskara)の唯識の世界に溶融して,因縁の呪縛から脱し,涅槃への道を知る教えであった。
その頃,華北では,チンギス・ハーン(1162.5.31.?-1227.8.25.)に率いられたモンゴル族が版図を広げつつあった。1206年6月,大ハーンの地位に就いたチンギス・ハーンは,華北の高原地域を中心とするモンゴル帝国を打ち立て,東は大興安嶺から,西はアルタイ山脈にかけての広大な領域を支配するまでになっていた。ハーンは満を持して,華北の女真族が支配する金王朝に触手を伸ばし,1211年,侵入を開始した。1215年,首都燕京を奪われた金は急速に弱体化し,モンゴルと南宋に南北から挟撃され,1234年滅亡する。そして,南宋自身にも,危機が迫る。
僧は,恩師とのやり取りを「寶慶記」に記録して,帰国すると,世俗化した諸宗派とは一線を画し,安貞元年 1227年には,「普勧坐禅儀」を著して,坐禅の極意を民衆に伝える活動に乗り出した。天福元年 1233年, 京都深草に興聖寺を開いた道元は,曹洞宗の教義と世界観を体系化した大著,「正法眼蔵」(75巻本+12巻本+補遺)の執筆を開始する。それは,衆生一人一人の禅の得心の手掛かり,足掛かりとなるべきものとして構想された,生涯をかけた大業であった。その平易でわかり易い教えを誰でもが理解できる和文仮名文字で書き,民衆に寄り添う姿勢を見せた。又,禅宗同士の反目と囲い込みによって,達磨(ダルマ)宗からの転向者が続出した時は,比叡山延暦寺と対立したこともあったが,寛元元年 1243年, 越前の地頭の招きで,越前志比荘へ潜居して再起を期すことに決め,二年 1244年,笠松の地に大佛寺を開き,四年 1246年, その大佛寺を永平寺に改め,曹洞宗を完全に民衆宗教として確立させた。寶治年間(1247-1249),執権北条時頼(嘉禄三年五月十四日 1227.6.29.-弘長三年十一月二十二日 1263.12.24.)の招請に応じ,鎌倉に下向し,黙照禅を広める活動に専念したが,建長五年 1253年,病を発し,入滅した。54年の禍福だった。
現在の大本山は,福井県吉田郡永平寺町にある永平寺と神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺であり,歴史的には,奥羽二州に14世紀から1615年まで第三の本山,正法寺(岩手県奥州市水沢黒石町)があった。
尚,道元と,モンゴルの中国国号“元”との相関は特に無い。禅と言う行(ギョウ)を行うことに何か,殊更意味があるのか,と言うと,それは,あくまで個人的体験に過ぎない。この元とは,何かの元(モト)となるものという意味で使われる。要するに,最小構成要素の事である。
道元は,万人のための万人の涅槃への道を説いた僧だった。時代は下り,クビライ(Qubilai 1215.9.23.-1294.2.18.)の治世となっていた“元”は,抵抗する漢族を武力で封じ込め,1268年から1273年までの5年に及ぶ包囲攻防戦の末,南宋を亡ぼして,支配王朝となり,人頭税と銀本位制の下,繁栄を極めた。そして,ヴィエトナム,高麗を平らげ,日本にも触手を伸ばしたが,流石(サスガ)にその野望は台風襲来という,不測の事態で潰(ツイ)え去り,日本は事なきを得た。それは国号が,日本(ヒノモト)だったからではない。
元の漢族支配の一つは宗教政策であった。漢族の実質支配は耶律楚材(Yalu Chu-cai 1190.7.24.-1244.6.20.)いう女真族の官僚に委ねられ,漢族を教唆し,抵抗勢力を維持しようとする宗教指導者たちを無力化するため,その頃大衆的人気があった,道教と仏教の僧侶たちを三回に渡り,論争させた。それは事実上,道教の頂点に立つ全真教と禅宗を代表する曹洞宗によるもので,当時は,曹洞宗の勢力も漢族の間では大いに支持を得ていたことが分かる。耶律楚材の策略は功を奏し,クビライは,正に禅問答と言える空虚な論争に終止符を打ち,旧知のチベット仏教の指導者パクパ(Phags-pa 1235.3.6.-1280.11.22.)を頂点とする宗教者会議を組織し,道教も仏教も,他の宗教もそれに追従させ,漢族の精神的拠り所のくさびを打った。