500マイル 第1章 死を待つ wait for death


アメデオ(Amedeo Modigliani 1884.7.12.-1920.1.24.)の心残りは、ジャンヌ(Jeanne Hebuterne 1898.4.6.-1920.1.25.)だけだった。愛していた。深く。世界で最も愛おしい存在。心安らぐ、何もかも、没入させてくれる女性。全ては、彼女のためにあった。彼女の産んでくれた小さな存在も、又、愛おしい。素晴らしい人生。でも、ちょっと、短すぎる。明日には、自分の命は果てているかもしれない。哀れなジャンヌ、お前は、どうやって生きていくのか?

病室の苦しい息の中で、画家は自分の描いてきた女や男たちの住む、この地球という惑星での旅が間もなく、終わることを知っていた。パリに来たのは、まだ22歳だった。モンマルトルのアトリエ「洗濯船」に近いコーランクールの町に居を定め、翌年、セザンヌ展で覚醒し、セザンヌ(Poul Cezanne 1839.1.19.-1906.10.23.)に憧れ,傾倒した。しかし、アメデオは、10歳で肋膜を患い、14歳で重い腸チフスに掛かって、呼吸器系の疾患に、一生,悩まされる。

1914年は、アメデオにとって大事な年だった。目利きの画商で,アフリカ民芸芸術の収集家であるポール・ギヨーム(Poul Guillaume 1891-1934)と出会ったこと、エミリー・アリス・ヘイ(イギリスの詩人・作家 ペン・ネーム;ベアトリス・ヘイスティングス)との同棲も、彼にとって大きな人生の転機であった。アメデオは彫刻から離れ,画業に専念するようになり,ピカソ(Pablo Picasso 1881.10.25.-1973.4.8.),ユトリロ(Maurice Utrillo 1883.12.26.-1955.11.5.),藤田(嗣治 1886.11.27.-1968.1.29.)ら,所謂,エコール・ド・パリと呼ばれるグループ,あるいは,フランスの詩の巨人アポリネール(Guillaume Apollinaire 1880.8.26.-1918.11.9.)などとの交際で,幅広い知識を得,また,その洗礼によって,自らを新たな境地へと誘(イザナ)っていった。  

アメデオの後期の瞳を喪失した女性像の独特の表現は、ギヨームの影響だけでなく,こうした拡張されたポスト印象派との交友関係から生まれたものであり,光の魔術師,マティス(Henri Matisse 1869.12.31.-1904.11.3.)や絵画のパズラー,マグリット(Rene Magritte 1898.11.21.-1967.8.15.)等の革新的作品や同時的に進行しつつあったキュビスム,シュールリアリズムと共に,20世紀初頭の絵画芸術の一つの頂点を成す。時に,世界戦争が火蓋を切り,世は騒然とし,アメデオの友人たちも戦場へ駆り立てられていったが,幸か,不幸か,彼自身は病状思わしくなく,出征を免れ,画業に専念することとなった。そして,1916年,エミリーとの生活に終止符を打ったアメデオは,ポーランド人の詩人で画商のレオポルド・ズボロフスキと終身専属契約を結び,以後,彼の助けを得て,知名度を上げ,1917年3月,終生最後のパートナー,ジャンヌ・エピュテルヌとアカデミー・コラロッシで遭遇したのである。

彼は,結核性の髄膜炎の悪化と薬物濫用により,命を永らえられないことを自覚していた。それなのに。若く花咲いた娘を,我が物にしようという野心を抱いた。今にも消え去ろうという,我が身の不幸を,その娘にも,その一家にも,撒き散らすことは明らかであり,推して考えれば,自重することこそ肝要であることは分かっていた。だが,冷静な判断は一瞬に吹き飛んだ。そこに赤毛の若い娘,生贄(イケニエ)の彼女がいるのだ。毎晩,似顔絵描きで食い繋ぐ自分のために神から授けられた抛(ホウ)られた子羊を前に,「俺にどうしろというのだ!」。アメデオは,しかし,彼女の“女”に溺れていった。

彼女を描くたび,彼は貪欲な自分の情けない欲望に突き動かされ,ただ,自分を受け入れ,自分のためだけに仕え,自分のためだけに生きようとする愛奴となってしまった純粋無垢な娘に,心ならずも,恥も外聞も無く,のめり込んでいく。そんな自分を押しとどめる理性は,既に無かった。自分が今,最も必要とする良心の理解者として,“女”は必要だった。1917年12月3日,ベルト・ヴァイル画廊で開幕した,初めての個展は裸体画のエロスが問題とされ,警察が踏み込み,直ちに撤去された。ズボロフスキは,1918年秋,アメデオに転地療養のためと言い包(クル)めて,喧騒のパリから,身重のジャンヌを連れて,コートダジュールのニースへ移住させ,その作品を富裕な観光客達に売り込む作戦を立てた。それは,アメデオにとって,生涯初めてとなる楽しく愉快な日々となった。そして,11月29日,二人の間に娘が誕生する。その名もジャンヌと命名されたその子は,両親の一切を知らずにアメデオの故郷であるイタリアの親戚に預けられ,育つことになる。つまり,両親を奪った死霊から逃れるために。

死が迫っていることを薄々(ウスウス)感じ取っていた画家は,パリに戻ると,憔悴し始め,1919年7月,ジャンヌと結婚を誓約したものの,元の荒廃した生活に回帰し,立ち直る術も無く,1920年1月24日,ジャンヌの空しい嗚咽の下に逝った。35歳。そして,ジャンヌは2日後,26日,実家の二階から,飛び降り自殺し,物語は終わる。21歳の花は萎(シオ)れて果てた。二人は愛に彫刻された塑像のように時空に刻まれていた。運不運の軌跡(奇跡)を述懐するまでも無く,人生から見捨てられ,虚空に繋がれて生きた天使たちの破滅のシナリオを描いた神にこそ,その罪は語られなければならない悲劇ではなかったか?しかし,それは沈黙の内に沈んでいる。
2021年07月24日
Posted by kirisawa
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