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Five Hundred Miles
If you miss the train I’m on you will know that I am gone
You can hear the whistle blow a hundred miles
A hundred miles a hundred miles a hundred miles a hundred miles
A hundred miles you can hear the whistle blow a hundred miles
僕の乗った列車に乗り遅れたら、君は僕が去ってしまったことを知る
君は100マイルの彼方の風に乗った汽笛を聞く
100マイル 100マイル 100マイル 100マイル
100マイル 100マイル彼方から風に乗って汽笛が聞こえる
Load I’m one Load I’m two Load I‘m three Load I’m four
Load I’m five hundred miles from my home
Five hundred miles five hundred miles five hundred miles five hundred miles
Load I’m five hundred miles from my home
神よ、100、200、300、400、
500マイルも家から離れてしまって
500マイル、500マイル、500マイル、500マイルも
神よ、家から500マイルも離れてしまった
序章 旅の終わりに goooooood bye, wealth and health.
ラーマクリシュナ(Sri Ramakrishna Paramahamsa 1836.2.18.-1886.8.16.)は、unisの一片、と言える。unisとは、19世紀から20世紀にかけて、あらゆる分野で試みられ、考えられた総合化・統一化を目指す、社会科学から自然科学に及ぶ広範な思想・信仰・理論・思潮を言い、それは、アインシュタインの夢見た統一場理論に抽象されたように、その分野の最終的な決着を企図した還元主義的夢想だった。
その残像が、今のボクたちの時代のクラウドの趣向かもしれない。何れにしろ、ヒトという実存が、種としての集団的潜在意識を自覚し、それが既に、自己と分かち難い、沈黙の内在である本能に帰す原罪システムと経路している現実を認識していることに戦慄する。ヒトは何らかの統合理念を必要としているのかもしれないが、それが、波状的に海岸に押し寄せては集団自殺する、あの鯨類の末路にも似た結末を迎えないよう祈るしかない。多分、”知“の集積の時代は、終わりに近づいている。そして、それは、飛躍を意味しない。静かな終焉(周縁edge)となるだろう。
雷鳴が轟き、雨が降り出す。
ラーマクリシュナの物語は、ご多分に漏れず、神がかりのそれであり、未開の人々の好む、未開のそれであった。それを今でも、咋(アカラサマ)に認めることに、現代化した現代のその子孫たちも、何故か、頑(カタク)なである。彼はバラモンであったが、カーストの下層民と親しく交わり、犬の汚物も共に食し、女神カーリーという非存在に共振(狂信)し、そのイメージの虜となり、やがて、没我のエクスタシーの快楽に溺れ、自失した。
雨脚は早まり、風が起き、俄かに悲鳴のようなスクリームが遠くに聞こえる。
彼が再び、浄化されることを望み、1860年、寺に籠り、修行の日々を送るようになって間もなく、シャクティ派の女性行者がやって来る。その女性行者に、青年は、全て打ち明け、全てを吐き出し、全てぶちまけて、ヒンズー教の真の意味での、破戒の後ろめたさ、バイブルの言うところの原罪の意識、に苛(サイナ)まれていた自分を、祖(ソ)の軛(クビキ)から解き放ったのだった。そして、ヒンズーの神々、化身、神獣などに変身(メタモルフォーゼ)しながら、又、透過しつつ、性別も越えて、現世を巡った、という。そして、1864年の終わりに、哲学を修め、実践者である高僧トーター・プリーに学ぶ機会を得て、同時期のドイツの哲学者フォイエルバハが到達した人間学と同様の、「人間精神は本性上、神と同一であること」と、「可視的で、感じられる事物(現実)は全てマーヤー(幻;illusion)であること」を知った。
古びた21世紀の街々。辿り着けなかった未来。
修行者にして、知識の凝集者となった青年は、性の聖なるものの最終葛藤であるカーストを超越すべく、自らをカースト外賤民であるチャンダーラと見做し、不浄な生業(ナリワイ)の中に身を置いて暮らす道を選ぶこととなった。そして、遂に、1866年、青年はイスラムを拝し、メッカに巡礼して、アッラーに帰依し、1874年、イエス降臨の幻を見た。そうして、師となった青年の死は、足早にやってきた。1886年8月16日、コシポルのガーデンハウスで、師は喉頭ガンのため死去した。50歳。
窓際に置き忘れられた魂の欠片、鈍色に萎(シナ)垂れる。